2017年1月16日 投稿者:謎の弟子X 投稿日:2017年 1月16日(月)19時44分20秒 通報 昭和五十四年の春を目指して —-「七つの鐘」 。それは創価学会の「希望」そのものだった。 一九五八年 (昭和33年)四月二日。第二代会長の戸田城聖は五十八年の生涯を閉じる。 戸田は生前、「学会は七年ごとに大きな歩みを刻んでいくのだ」「七つの鐘を打て」と語っていたという。学会の歴史を七年ごとに区切り、その歩みを「鐘」を打ち鳴らす行為に誓える —-それが「七つの鐘」の発想である。 第一の鐘 学会創立(1930年 = 昭和五年)から、機構が整い発足するまで。 第二の鐘 牧口の獄死まで。 第三の鐘 戸田の会長就任まで。 第四の鐘 戸田の逝去まで。 池田が「七つの鐘」の構想を発表したのは、戸田を失ったひと月後。発表直前の日記に苦衷がにじむ。 「意義深き五月三日、目前に迫る。学会の指揮を執る日となるか。」胸苦し、荷重し。「第五の鐘」の乱打」(一九五八年 = 昭和三十三年四月二十九日) ◇ 恩師の偉業を歴史に刻む。 同志を悲しみの淵から救い出す。 「この戸田の生命よりも大切」と託された学会を死守し、マスコミの中傷をはね返す……。 「七つの鐘」の構想は、幾つもの難題を乗り切る羅針盤となっていく。 その発表から、ちょうど二年後の五月三日、池田が第三代会長に就任。会長としての毎日は、自ら示した「七つの鐘」の理想と共にあった。 第五の鐘 = 戸田の逝去から七年間。三〇〇万世帯を目指し、わずか五年で達成した。 第六の鐘 = 正本堂建立まで。 この間、学会は七五〇万世帯に。 そして第七の鐘 = 昭和五十四年の春まで。 「「七つの鐘」こそ、すべての学会員の心の支えだったと思います」(臼倉晴代)。「第七の鐘が鳴り終わる記念の式典は、昭和五十四年五月三日。学会にとって最高の記念日となるはずだった」(大場好孝、SGI理事長)。 「七つの鐘」の総仕上げを控え、神奈川文化会館に集った人々が、池田と共に「七つの鐘」を鳴らしてきた同志であることは言うまでもない。 「一人立つ精神」 浜畑の話が続いている。 —-「七つの鐘」の構想を聞き、再び希望が見えました。勇気が湧きました。あの日、両国に集った人々が全国に散った。だからこそ、現在の学会があると思います—- 語り終えた浜畑に、池田は笑顔で「頭がずいぶん白くなったな」。満座に明るい笑い声が広がった。 この九日前、既に会長辞任が決定していた。「七つの鐘」という希望を抱きしめ絶え間ない 試練を乗り越えてきた戦友たちが、目の前にいる。しかし、まだ誰も会長辞任決定の事実を知らない……。会場後方を指さした池田。振り向く参加者。そこには、「一人立つ精神」と記され額があった。獄死した初代会長・牧口常三郎の筆である。 「人それぞれ、さまざまな人生がある。しかし、信心だけは潔く貫いていかねばならない」 「学会においても幾つかの転換すべき節目がある。いかなる時も、牧口先生のように”一人立つ精神”で生き抜いてほしい」 これが、池田が会長として公式に行った、最後の指導となった。 翌月。”最高の記念日”のはずの五月三日は、あろうことか 「会長辞任式」ともいうべき行事になったのである。会場の創価大学中央体育館。壇上の右側が、袈裟を着た僧の集団で埋まっていた。池田は終了後、学会本部ではなく、神奈川文化会館に直行した。学会員が池田に指導を求めることもできない。聖教新聞に登場することも、ほとんどない —- 池田は何重にも活動の手足を縛られた。 出典 「民衆こそ王者」池田大作とその時代2 P142~144 Tweet