投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 1月 5日(木)20時56分46秒   通報
シルビア・E・サイトウさん──南米広布の母
2006-4-16

母は幸福の旗なり!師弟ひとすじに生き抜く

全世界母に勝れるものはなし

わが婦人部が結成されて、五十五周年──
。嬉しいことに、今や世界中で、五月三日の「創価学会母の日」が慶祝(
けいしゅく)されている。創価の母たちが「人類の宝」と感謝され、「世
紀の希望」と仰がれゆく時代が始まったのだ。ブラジルの誇る女性詩人コ
ラ・コラリーナは謳(うた)った。「楽観主義をもって種を蒔(ま)
け!理想をもって種を蒔け!平和と正義の生命力あふれる種を!」

私の胸には、ただひとすじに妙法流布の種を蒔き続けてきた、誇り高き母
たちの顔が深く刻まれて、決して離れることはない。その尊き一人が、「
南米広布の母」と讃えられたシルビア・E・サイトウさん(日本名・斎藤悦
子)である。喘息で「二十まで生きられない」と言われた彼女が、十九歳
で入信し、更賜寿命(きょうしじゅみょう)して、ブラジルの大地に幸福と
栄光の種を蒔いていった。世界広布の王者、ブラジルSGI。その堅固な
礎(いしずえ)となったのも、広宣流布に命を捧げた母たちであった。

◆「彼女ならば……」

それは、一九六四年(昭和三十九年)の師走であったと記憶する。清楚な
ヤング・ミセスが、大田区小林町(当時)の小さな小さな我が家を訪ねてき
た。シルビアさんである。妻と歓待した。その数日前、私は、優秀な商社マン
で、ブラジルに単身赴任していた夫のロベ.ルト・Y・サイトウさん(日本名
・斎藤晏弘〔やすひろ〕)とお会いした。彼は、学会の南米本部長として戦う
ため、会社を辞し、本格的にブラジルに移住したいとの決意を固めていた。

夫人のシルビアさんも、大変な覚悟であったろう。しかし、私には「彼女なら
ば」との思いがあった。なぜなら、誉れ高き関西女子部の出身者であったから
である。京都の女子部時代、彼女は、私と共に、「大阪の戦い」(昭和三十一
年)を喜び勇んで戦った。翌年の大阪事件では、囚(とら)われの私の身を案
じ、東警察署にも、大阪地検や大阪拘置所にも駆けつけてくれたのだ。

その後、関西でも東京でも、目覚ましい広布拡大の実証を示し、個人折伏も、
入信十年で五十世帯を超えていた。私は、彼女に尋ねた。「本当に行けるかい
」「はい、行ってきます!ブラジル広布をやり遂げて、先生にお応(こた)え
します」誓願(せいがん)に燃えた美しい顔と、そして凛然(りんぜん)とし
た声が、嬉しかった。「私も全力で応援するよ。一年後には、必ず行くからね
」彼女は二十八歳だった。

そして、生涯、この時の誓いを忘れなかった。南米本部の婦人部長の任(にん
)を受けた彼女は、翌一九六五年の一月、颯爽(さっそう)と新天地へ旅立っ
たのである。

◆必ず宿命転換を

彼女の行動は、長旅を経てサンパウロに到着した、その翌日から直ちに始まっ
た。メンバーのトラックに乗せてもらい、五十キロ、百キロと離れた同志の家
を、一軒また一軒と、訪ねて回っていったのである。大雨で車が立ち往生し、
やむなく四歳の長女を背負い、二歳の長男を抱いて、膝まで水につかりながら
歩いたこともあった。

しかも、おなかには三人目の子がいた。当時、ブラジルには、二千五百世帯の
同志が、希望に燃えて生き抜き、戦っていた。その多くは日系人である。
皆、いまだ生活は苦しかった。そこへ、天から降ってきたような女性が、凛
(りん)として、大確信の声を響かせたのである。「ひどい喘息で死を待つだ
けだった私が、信心をして、池田先生にお会いし、生きる希望を得たのです。

必ず必ず宿命転換できる仏法です。先生が言われる通りに、前進しましょう!」
まさに、“幼子(おさなご)を抱いたジャンヌ・ダルク”であった。一年後には
、三倍増の八千世帯を突破した。いや、優に一万世帯を超える勢いだったと、
当時を振り返る人もいる。

辛くとも 嘆くな笑顔の 母の勝ち

一九六六年三月、約束通り、私はブラジルの土を踏んだ。私にとっては、第三
代会長に就任した年の初訪問以来、六年ぶりのブラジルである。だが、軍事政
権下、行く先々で政治警察に監視された。銃を持った大勢の警官に、会合の会
場を囲まれたこともあった。その背景には、学会の急速な発展に反感をいだい
た勢力からの、「共産主義者」「暴力主義者」等々、まったく事実無根の誹謗
があった。

広宣流布の大躍進は、「猶多怨嫉(ゆたおんしつ)」の難を引き起こしていた
のである。御聖訓(ごせいくん)通り、「魔競(ま・きそ)はずは正法と知る
べからず」(御書一〇八七ページ)だ。「先生、申し訳ありません」「私は
大丈夫だよ。広布の途上で銃に撃たれるなら本望じゃないか!」悔しさに涙し
ていた彼女が、毅然(きぜん)と顔を上げた。「先生、私は決して負けません。
絶対に世界一のブラジルをつくって、再び先生と奥様をお迎えします!」
一九七四年の三月、私はアメリカ・ロサンゼルスでの行事を終え、ブラジルへ
向かう予定であった。

しかし、申請していたビザが発給されず、訪伯(ほうはく)を断念せざるを得
なかった。私は、サイトウ夫妻に電話をかけて言った。「涙など、決して見せ
てはいけない。明るく、皆を励ますんだよ。……頼んだよ」私は急遽(きゅう
きょ)、予定を変更して、アメリカのニューオーリンズ市へ飛んで、教育交流を
進め、多くの英邁(えいまい)な青年たちと語りあった。

その訪問の三十周年を記念して、このニューオーリンズ市に誕生した「友情の
森」に、私と妻の名をつけていただいたことも、光栄な限りである。昨年のハ
リケーンの被災も厳然と乗り越えて、わが同志は、社会の依怙依託(えこえた
く)となって晴れ晴れと貢献されている。世界広宣流布の前進には、決して行
き詰まりがない。真剣に踏み出した「一歩」の意義は、時とともに、いやまして
深まっていくものだ。

◆ムイト・マイス・ダイモク〔もっと題目を!〕
覚悟の信心で!

シルビアさんは、この最も苦難の時に、ブラジル人として生き抜く覚悟を決め
た。夫と共にブラジル国籍をとった。そして、ブラジルの国土に打ち込むが如
く、唱題につぐ唱題を重ねていった。「法華経に勝(まさ)る兵法なし」──
徹して題目をあげて、あげて、あげ抜いた。必ず、学会を正しく社会に認識さ
せてみせる!そのためにも、師弟不二の信心に徹し抜くのだ!この信念で、彼女
は、日本の二十三倍という広大な天地を駆け巡った。

はるか三千キロの彼方のアマゾンへも行つた。その足跡は、国境を越え、ペル
ー、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンなどにも及んでいる。
わが子が次々に生死(せいし)をさまよう病魔に襲われ、深刻な経済苦にも悩む
婦人部員がいた。「私ほど不幸な女はいない」と嘆く彼女に、シルビアさんの
激励は鮮烈であった。「今こそ、変毒為薬(へんどくいやく)できる時です。

先生に続いて、大願を起こしましょう!ブラジルの全同志が自分以上に幸福に
なることを祈り、戦い、広宣流布に励むのです。人生に勝つには信心です!」
この励ましに立ち上がり、苦難を打開していった女性が、現在のブラジル婦人
部長、ジェニ・イケダさんである。

◆18年ぶりの訪問

二度目の訪問から十八年の長き歳月が流れ、私は、遂に、三たび、悲願のブラ
ジルの土を踏んだ。一九八四年の二月十九日であった。言い知れぬ労苦の果て
に、出迎えてくれたシルビアさんたちの笑顔と涙の輝きを、どうして忘れること
ができようか。妻の目にも光るものがあった。──「ピケ、ピケ、ピケ」の
大勝利の熱い雄叫(おたけ)びが、こだました大文化祭。

私は、リハーサル会場にも足を運んだ。青年たちの嵐の如き歓呼が響いた。
この日に向けて、ブラジルの未来部、そして青年部の友は、「つた(拙)なき
もののならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(同二三四
ページ)との御聖訓を学んでいた。これは、あの「大阪の戦い」の真っ只中、
旧関西本部で、シルビアさんと初めて会った直後、私が贈った一節である。

「この御文だけは、生涯、忘れてはいけないよ」──その心が、後継の若人の
心に、確かに伝えられていた。ある慧眼(けいがん)の宗教社会学者は、ブラ
ジルSGIが発展の基盤を築くことができた理由の一つに、“師弟という感覚が
もともとないブラジル”に、「師弟」の観念を形成した点をあげておられる。
これは、“池田会長から信仰の原点を学んだシルビア・サイトウ総合婦人部長の
指導によるところが大きい”と、その学者は結論されている。
〈渡辺雅子著『ブラジル日系新宗教の展開』東信堂〉

◆正義の怒りに燃え

あの忘恩背信の日顕一派が邪悪の牙をむいた時も、彼女は「彼らは民衆の真心
の浄財を貪(むさぼ)り、生き血をすする天魔です」と、真っ先に叫んだ。
ブラジルの同志の真心の限りを尽くして建立(こんりゅう)された一乗寺
(いちじょうじ)を、日顕一派が不法に乗っ取ろうとするや、当時のエレーナ・
タグチ婦人部長と共に、破邪顕正の祈りをさらに猛然と起こしていった。

それに、全同志も呼応し、題目の渦は、全土に広がった。ブラジルSGIは十
一回にわたる裁判を全て勝って、邪宗門の画策(かくさく)を完膚(かんぷ)
無きまで打ち砕いた。ブラジルの尊き同志たちには、極悪に対する正義の怒り
が燃え上がっていた。新しき平和と文化の潮流である、その闘魂こそが、世界
に冠たるブラジルSGIを築き上げていったのである。

ブラジル文学アカデミーのマシャード・デ・アシス初代総裁は語った。「生き
る芸術とは、いかに大悪があろうと、それに勝る大善を生み出すことだ」シル
ビアさんが突然、病床に伏したとの急報が届いたのは、一九九三年の四月であ
る。この年、私の四度目のブラジル訪問を、同志と共に、そしてまた三人の
後継のお子さん方と、家族そろって、陰で支えてくれたのが、彼女であった。

私と妻は、ひたぶるに祈り、お見舞いの伝言を送った。夫のロベルトさんが枕
許(まくらもと)で、その伝言を伝えると、昏睡状態だった彼女の目から、美
しい涙がこぼれ落ちていったと伺(うかが)った。意義深き四月二十八日の夕刻
、偉大なるブラジル広布の大先駆者シルビアさんは、静かに、そして厳(おごそ)
かに霊山へ逝(ゆ)かれた。

享年(きょうねん)五十七歳。寿命を三十数年延ばしての新生の旅立ちであっ
たのだ。葬儀には五千人もの人びとが集った。社会の名士も多く参列された。
葬儀が終わっても、アマゾンや隣国から、彼女にお世話になった同志たちが続々
と駆けつけたという。私は、栄光の生涯を讃えた。

偉大なる 南米広布の母なれば その名光りて 三世に薫らむ

その芳名(ほうめい)は、広島の中国平和記念墓地公園にある「世界顕彰之碑
」にも、一閻浮提広宣流布の功労者の代表として、燦然(さんぜん)と刻まれ
ている。私と妻が、シルビアさんを偲(しの)んで、東京牧口記念会館の庭園に
植樹した桜も、立派に育って、この春も爛漫(らんまん)の花を咲かせた。
シルビアさんたちが、ここブラジルの大地に染み込ませた唱題。

それは、何千万、何億、いな何十億万遍という数の題目となった。「ムイト・
マイス・ダイモク!(もっと題目を!)」この大仏法者シルビアさんの尊く美
しき信念は、今もって、優に十万人の連帯を誇る、偉大なるブラジル婦人部に
脈々と受け継がれている。日蓮大聖人は、「これまで多くの月日の間、日夜読誦
(どくじゅ)しているところの妙法の功徳は、大空にも余っているであろう」
(御書一一九四ページ、通解)と仰せである。

母の結合は、真実の正義の力である。世界の母の連帯こそが、永遠の勝利者の
土台であるがゆえに、恒久の世界平和の原則となってゆくのだ。「祈りとして
叶わざるなし」──平和の大先覚者の創価の母たちの祈りは、必ずや人類の宿命
を転換し、母なる地球の命運をも絶対に変えていくにちがいない。

母は大地!母は太陽!そして、母は幸福の旗なり。