投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月27日(土)14時37分52秒 返信・引用

仏典に「牛どろぼう」の話がある。
――ある村の人々がよそから牛を盗んで、皆で食べてしまった。
牛を盗られた者が跡を追って村までやって来た。そして村人をつかまえ、問いつめた。

「お前は、この村の者か」。
盗んだ者は答えた――「私はこの村の者ではありません」。
また聞いた。
「この村の中に池があるはずだ。その池のほとりで、皆で一緒に牛を食べただろう」。
ところが
「池なんてありはしませんよ」。
盗人はやましい心があるし、《事実》をごまかそうとしてでたらめを言う。

「池のかたわらに樹があるだろう」
「樹なんかありません」
牛飼いは、怒っているので追及の手をゆるめない。

「牛を盗むのに、この村の東の方へ行っただろう」
いよいよ核心に迫ってきた。
ところが、答えがあきれる。

「ここに東なんてありませんよ」
だんだんボロが出てきた。

「お前たちが牛を盗んだのは日中ではなかったか」
「いいえ。ここには日中なんてありません」
――もう、しどろもどろである。

とうとう牛飼いは怒りを爆発させた。
「村人でないとか、樹がないというだけならまだしも、東もない、時もないなどというところが、いったい世界のどこにある。お前の言うことはみんなうそばかりだ。すべて信ずるに足らない。お前たちは、やっぱり牛を盗んで食べたな!」

ついに盗人の村人は、「たしかに食べました」と白状した。
――笑い話のようであるが、経典には「破仏法の人もまた同じである。罪をごまかそうとしても、何ごともないかのようでいて、死して必ず地獄に入る。諸天善神が天眼をもって見れば、隠しきることはできない」と結ばれている。

そうした諸天善神の働きを強めるのは、「自分の牛を盗られて、黙っていられない!」との、牛飼いのごとき不正への「怒り」と「追及」であるとの教えである。

悪を犯しているのは事実なのだから、ボロが出ないはずがない。
これまでもSGIの「広宣流布」への前進を妬み、破壊しようと、多くの悪人が策謀した。
「盗人」のように、私どもの営々たる努力の実りだけを盗もうとする人間もいた。今もいる。
これらの盗人に対しては、決して遠慮してはならない。
悪を黙認してはならないと、大聖人は繰り返し教えておられる。
その確信の行動が、諸天善神の働きを呼び起こして、厳然と正邪、善悪を明らかにするのである。

【ボストン勤行会 平成三年九月二十七日(大作全集七十八巻)】