投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月20日(火)12時56分1秒   通報
リチャード・コーストンさん──
イギリスSGIの初代理事長

広布の使命に生き抜いた英国紳士(ジェントルマン)
2006-5-21

──「学会の前進が人類の幸福と平和の前進」「創価学会の信奉す
る仏法は、世界を救う仏法である。創価学会の前進は、人類の幸福と平和の
前進である」イギリスSGI(創価学会インタナショナル)のリチャード・
コーストン初代理事長が、その全人生を賭(と)して放っていった叫びである

。それは、金の思い出と輝く、一九九四年の六月十五日──創立五百五
十年の歴史を誇るスコットランドの名門グラスゴー大学から、私は光栄にも、
名誉博士号を拝受した。ヨーロッパ屈指の学問の王座であり、教育の殿堂
である。まことに厳かな儀式であった。何ものにも動ぜぬ、荘厳なる伝統が

光っていた。何ものにも侵されぬ、厳正なる品格が薫っていた。グラスゴ
ーの緯度はモスクワと、ほぼ同じである。初夏とはいえ、式典会場から外へ
出ると、風が肌寒かった。その時、後ろから、とっさに自分のコートをぬい
で、私の体を覆(おお)ってくれた紳士がいた。コートの温もりから、心の温

もりが伝わってきた。振り向けば、あのコーストンさんの微笑みがあった。
「私の母は、ここグラスゴーの出身でした。きょうの池田先生の受章が、私
は、嬉しくて嬉しくてなりません」◆何と愚かな事をコーストンさんに
は、良き英国紳士の気品があり、風格があった。祖先は、印刷技術をイギリ
スに伝え、多大な貢献を果たした名家である。今でも、ロンドンの国会議事堂

の近くには、祖先の名「カクストン」を冠した立派な集会ホールが存在する。
母方も、グラスゴーの裕福な家系であった。その名高い家門に、コースト
ンさんは、一九二〇年(大正九年)、生を受けた。長男として大切に薫育さ
れた彼は、名誉ある王立陸軍士官学校に学び、国を守りゆくエリート軍人にな

った。しかし、第二次世界大戦下、英印(えいいん)連合軍の少佐として、
インドとビルマ(現・ミャンマー)の国境付近で戦い、日本軍がインド東北部
への侵攻を企てた「インパール作戦」を迎え撃ち、戦争の残虐と悲惨を嫌とい
うほど体験した。「我々は、何と愚かなことをしているのか」──敗走す

る日本軍を追撃しながら、累々(るいるい)と横たわる屍(しかばね)を目の
当たりにし、コーストン少佐は慟哭(どうこく)した。私の敬愛する長兄・
喜一(きいち)も、ビルマで戦死した一人である。戦後、コーストンさん
は平和への夢を描きながら、長い軍人生活に別れを告げ、実業界に身を転じた

。ロンドンのハロッズ・デパートで副総支配人を務め、その後、ダンヒル社
の極東支配人として、何度か日本へ来るようになった。その折、学会員の光
子(みつこ)さんと出会い、やがて結婚に至る。光子さんの母君の薦(すす
)めもあり、手にした英語版の小説『人間革命』に衝撃を受けた。ここにこそ
、求めてやまなかった平和の大哲学がある、と。東洋流にいえば、「天命」

を知り抜く五十歳の年輪を重ねて、一九七一年(昭和四十六年)、凛然(りん
ぜん)と入会されたのである。喜々として活動を開始し、ほどなく在日外国
人メンバーの中心者となり、自宅では求道の息吹あふれる国際座談会やセミナ
ーが活発に開かれた。◆次はロンドンで──入会された当時、夫妻は新

宿区信濃町の聖教新聞本社の近くに住んでおられた。私の家とも、目と鼻の先
である。光子夫人は、一時、聖教新聞の配達員もしてくださっていた。不
思議なご縁だが、コーストンさんと初めてお会いしたのは、フランスの地であ
った。一九七二年の五月三日、仕事でフランスに滞在中の夫妻を、パリ本部

にお迎えしたのである。みずみずしい若葉の庭で、私は夫妻に語りかけた。
「東京で隣同士の私たちがパリで出会うとは、素晴らしいことですね!」
この二日後、私は大歴史家トインビー博士と、ロンドンのご自宅でお会いし、
二年越し四十時間に及ぶ対話を開始したのである。世界の諸文明を鋭く洞察
されてきた博士は言われた。「文明は、その基盤をなす宗教の質によって決ま

る」と。そして近代西洋文明の行き詰まりを打開する力として、「今こそ新
しい宗教が必要です」と、仏法の人間主義に大きな期待を寄せてくださった。
ここヨーロッパにも、本格的に大法弘通(だいほうぐつう)の時が来たと感
じた。ふと脳裏に浮かんだのは、誇り高き英国紳士コーストンさん夫妻の顔で
あった。その年の夏には、日本でコーストンさんと一緒に勤行をする機会も

あった。私は、彼の手を握って言った。「次はどこでお会いしたらいい
か、ずっと考えてきました。今度は、ロンドンで、いかがでしょうか」彼は
、「グッド・アイデア!」と顔をほころばせた。折から、コーストンさん
は考え始めていた。母国の「平和」と「広宣流布」に後半の人生を捧げゆく
ことが、自分の今世の使命ではないか、と。しかし、日本での暮らしは、家

庭も仕事も、すべて順調だった。帰国すれば、その安定を一切、捨てねばなら
ない。「日本永住」は、光子さんとの結婚の条件でもあった。しかし、ご夫
妻は真剣に唱題を重ね、イギリスの妙法広布を深く決心したのである。私は
、書籍に、「久遠元初からの永遠の友」と記して、お二人に贈った。「イギ
リス一、幸福なご夫妻になってください」と。渡英の直前には、信濃町のコ

ーストン夫妻のお宅で開かれた最後の座談会に、私の妻も参加した。イギリ
スで一番苦労するのは光子さんだからと、妻は、自分の体験を通しながら、「
ヨーロッパの広宣流布をよろしくお願いします」と、膝を交えて語り合ったよ
うである。ご夫妻が旅立ったのは、一九七四年(昭和四十九年)の春三月で
あった。折しも東西冷戦下、米ソ対立の狭間(はざま)で、ヨーロッパも

また、分断の苦悩が続いていた。ベトナムや中東の戦火も絶えなかった。戦
争から平和へ!私は、その転換の原動力こそ「対話」だと、決然と世界へ
打って出た。この七四年には、アジア、アメリカへ、さらに中国へ二度、ソ
連へも。共産圏への訪問を揶揄(やゆ)して「宗教者が、なぜ赤いネクタイ

をするのか」等の中傷を浴びたが、私は歯牙にもかけなかった。翌七五年一
月には、再び渡米。戦争の悲劇の島グアムで、SGIを結成した。「世界広
宣流布」即「世界平和」をめざして!歴史的な発足式には、コーストンさん
も飛んで来られた。「必ずイギリスにも行きます!」と伝えると、彼の笑顔が
弾けた。「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(

ほか)・未来までもながる(流布)べし」(御書三二九ページ)この永遠の
妙法を根底に、イギリスにも、いな全ヨーロッパにも、必ずや「永遠の平和の
都」を築くのだ!これが、彼と私の決意であった。◆師弟不二の誓い
コーストンさん夫妻の再出発は、苦難続きだった。期待していた仕事の当て

が外れ、給料は激減した。光子夫人が慣れない異国の地で、ベビーシッター
をして生活費を助けた。七五年の五月、約束したロンドンでの再会が実現し
た。私のイギリス初訪問から十四年。この時、イギリスで法人が認可され、
コーストンさんが初代理事長に就(つ)いた。「私たちは、どこまでも、師

弟不二の精神で前進します!」彼の就任第一声は、毅然(きぜん)としてい
た。新しいスーツも靴も買えず、生活はどん底だったが、広布に戦う心は朗
らかに不撓不屈(ふとうふくつ)であった。「長き夜も必ず明ける」(シェ
ークスピア)。輝く朝を見つめ、彼は戦った。車や電車を乗り継ぎ、地方都
市に住む同志の激励にも回った。大雨の日、破れた靴から靴下が濡れ、やっ

と訪ねた家で仏間にあがれなかったこともある。コーストンさんは、ロンド
ン西部の自宅アパートの一部屋を、拠点兼事務所に提供してくださった。イギ
リス広布の草創期を共に歩む尊き同志たちと、大家族のような楽しい日々だっ
たと振り返っておられた。「立正安国論」「諸法実相抄」等の御書を講義し

、青年部と共に、“トインビー対談”の勉強会も真剣に行った。現在のサミ
ュエルズ理事長、フジイ副理事長、プリチャード婦人部長らも、“コーストン
学校”の栄えある卒業生である。リッチモンドに新会館が誕生すると、ご夫
妻に管理者になっていただいた。メンバーも皆、わが事のように大喜びした。
戦場という生死の境で指揮を執ってきた彼は、指導者のわずかな気の緩み

で、幾多の人々を犠牲にしてしまうことを、身に沁(し)みて知悉(ちしつ)
していた。ゆえに誰よりも自分に厳しいリーダーであった。また、連携を
密にして、報告を迅速・正確にしていくことが、組織の生命線であることを、
常に訴えていた。さらに、あらゆる戦いにおいて、皆の食料や休憩(きゅう
けい)・睡眠を確保することが、指揮者の責務である。彼は、いかなる時も

、メンバーがお腹をすかしていないか、疲れていないか、交通手段は心配ない
か等々、細やかに心を砕いていった。◆正義は学会に!一九七九年──
嫉妬に狂った坊主と恩知らずの反逆者の大陰謀により、私が第三代会長を辞
任した年の秋のことである。彼は、同志と共に、私が指揮を執る神奈川文
化会館まで、勇んで来てくれた。私が「学会は正義です。何の心配もいりま

せん。『十年後を見よ!二十年後を見よ!』との心意気で進みましょう」と
語ると、彼の力強い声が響いた。「狂った日本で何があろうとも、池田先
生は、永遠に私たち創価学会インタナショナルの会長です。SGI会長とし
て、イギリスにいらしてください!我らのヨーロッパで、世界広宣流布の

思う存分の指揮をお願いします!」その生命の叫びを、どうして忘れること
ができようか。八一年の五月、正義の師子は、いよいよ鎖を断ち切り、二
カ月間で地球を一周する平和旅に疾駆した。六月上旬には、雄壮なサント・
ビクトワール山(勝利山)を仰ぐ、南仏(なんふつ)トレッツの欧州研修道場

にいた。十八力国五百人の地涌の友が集い、欧州広布二十周年を記念する研
修会が行われたのだ。研修初日の六月六日は、創立の父・牧口常三郎先生の
生誕百十周年の佳節であった。今、この日は「ヨーロッパの日」として歴史に
刻まれている。期間中、早朝から深夜、そして明け方まで、不眠不休で運営

にあたってくれたのが、コーストンさんだった。当時、六十一歳。少し休ん
でほしいと心配する青年に、感謝しながらも、断固たる口調で言った。「今
、欧州は広布の草創期だ。自分の体をかばっている時ではない!」彼は、愛
する青年たちに繰り返し語った。「常に会員第一たれ」「現場主義が大

切だ。官僚主義に陥ってはいけない」「自分に負けて、為すべきことをしな
いことは、仲間を裏切り、陥れることだ」「大切な同志を、自分の信念を、
絶対に裏切ってはならない」その十年後の九一年三月、日顕宗の学会破壊
の謀略に怒ったコーストン理事長は、烈々たる抗議文を日顕に叩きつけた。

「私たちがSGI会長を裏切り、SGI組織を解散するはずだと、汝は信じて
いるのか!そこまで我らを見下しているのか!」「汝が行おうとしているこ
とは、イギリスの広宣流布を何百年も遅らせることでしかない!」この火を
噴く正義の論陣が、イギリスはもちろん、全ヨーロッパのSGIを厳然と護っ

たのだ。妙法は「活(かつ)の法門」─その国の伝統もその人の
人生も輝く◆文化の城(タプロー・コート)の誕生イギリス広布という
「人生の本舞台」に立った時、コーストンさんのそれまでの一切の苦闘は、豁
然(かつぜん)と生きてきた。「ノブレス・オブリージュ(高貴な者に課せ

られる高い義務)」という伝統の精神も、仏法の菩薩の生き方を根底にすれば
、新たな「世界市民精神」として蘇生していくのを、コーストンさんは確信し
た。以前は悔いていた軍人としての経験すら、青年に伝えるべき「民衆奉仕
のリーダー学」の知恵の宝庫となった。妙とは「開く義」。妙とは「蘇
生の義」。そして、妙とは「円満具足の義」である。仏法には無駄がな

い。御聖訓には、「一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理
をわきまうべきにて候」(御書一五七九ページ)と仰せである。その国の良
き伝統を最大に生かし、その時代に応じて、人間と社会の幸福のため、豊かな
精神の価値を生み出す。それが「活の法門」である。一九八九年五月、美し
き七彩(しちさい)の虹のもと、壮麗なタブロー・コート総合文化センターが

堂々と開所した。あの“ベルリンの壁”が崩れる、半年前であった。二千
年の歴史が薫る天地に立つ城館(じょうかん)が、世界市民の集う平和と文化
の大殿堂として蘇った。それは、コーストンさんの大勝利の雄姿そのものであ
った。晴れの開所式に馳せ参じた私は、偉大な“城主”のご夫妻に一首を捧

げた。不思議にも夫婦(めおと)の使命は永遠にこの地に残らむ
世界に薫らむ◆最後の最後までコーストンさんが逝去されたのは、一九
九五年一月十三日の朝。享年は七十四歳であった。肺がんと告知されても、
一歩も退かなかった。逝去一週間前のイギリス総会にも、出席する決意だった

ようだ。心地よさそうな、眠るような最期であった。薄らぐ意識の中でも、
口を動かし続け、題目を唱えていた。傍(かたわ)らで手を握っていた光子
夫人が、「私も元気で戦っていきます。心配しないでください」と呼びかける
と、その手を強く握り返した。ピンク色の頬を、早朝の太陽が美しく照らし

、まことに荘厳な、新しい生命の旅立ちとなった。五十一歳で入信した時、
「あと二十年は妙法のために戦いたい」と願った彼。その通りの歳月を広宣
流布に捧げた“妙法のジェントルマン”は、ヨーロッパの平和の夜明けを見届
けたのだ。そして、新世紀の広布を託したヨーロッパの青年たちの大前進を

、あの柔和な笑みで見守り続けているにちがいない。タプロー・コートには
、コーストン初代理事長を讃えて、その端正な顔のレリーフが掲げられている
。私が贈らせていただいた言葉とともに──。「最後の最後まで、戦
って戦って戦い切って、世界広宣流布の歴史に、不滅の功績を留めし、大功労
の英雄なり」
略歴:リチャード・コーストン

1920年~1995年。ロンドン生まれ。英国王立陸軍士官学校卒業。第二次世界大
戦下のエンド・ビルマ国境戦線(日本側「インパール作戦」)で、英印連合軍
の少佐として従軍。

51歳のとき、日本で入会。その後、母国に戻り、イギリスSGIの初代理事長
となる。教学研さんを軸にメンバーを育成。仏法哲学をテーマにした演劇など
、多彩な文化運動を通して、SGIへの理解と共感を広げた。長年、世界平和
唱題会をイギリス全土で実践した。

欧州SGI副議長、SGI副会長など歴任。享年74歳。光子夫人はイギリスS
GIの副総合婦人部長。