人材の育成②
投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月24日(水)10時46分44秒 返信・引用

さて、その京都で、今も語り草とされている明治の大事業がある。
有名な「琵琶湖疏水」の建設である。(疏水とは運送、給水、灌漑等の目的で、土地を切り開いてつくった水路をいう)

明治十八年(一八八五年)に着工し、明治二十三年(一八九〇年)に完成。以来、百年の歳月を刻んでいる。

琵琶湖の水を京都の街に引く――この雄大な構想は、古くは平清盛や豊臣秀吉、徳川家康らも思い描いていたといわれる。

しかし、何百年もの間、だれも果たせなかった夢であった。
この古からの《見果てぬ夢》が、明治になって再浮上した。
東京遷都後の当時、政治的中心の意味を失った京都は、人口も減少し衰退の大きな危機に立たされていた。
疏水建設は、その復興の突破口として構想されたのである。

いわば前人未到の大事業。
しかし、不可能と思える険難の山を前に、あえて理想を掲げ、苦難の挑戦を開始した先人がいた。
立ち上がった青年がいた。

彼、田辺朔郎(一八六一年―一九四四年)は、現在の東京大学工学部の前身にあたる工部大学校に学んだ。
その卒業論文で、この「琵琶湖疏水」の計画に取り組んだのである。
創価大学も本年、いよいよ工学部が開設された。最先端の知識に挑戦し、身につけた俊英の成長が楽しみでならない。

「琵琶湖疏水」の構想を本格的に推進したのは、京都府の第三代の北垣国道知事である。
知事は、この大事業の成否は《人材で決まる》と考えていた。

その時、知事の心を動かしたのが、田辺青年であった。
若く、無名の一青年。
だが、燃えるような情熱と明晰な頭脳をもった、この青年に知事は賭けた。
彼は主任技師として工事の責任を託されたのである。弱冠二十一歳のころであった。

若き双肩にのしかかる、あまりにも重い責任と苦労。
しかし、彼は一歩も逃げない。
力の限りを尽くして限界を破っていく。
とともに、青年らしく《新しき発想》を大胆に発揮する。

たとえば、着工後しばらくして、彼はアメリカで世界初の水力発電に成功したというニュースをつかむ。
《いずれ、水力発電の時代が来る》――彼は、工事中にもかかわらず、あえて渡米し、この先端技術を視察。
そして、当初の《水車による水力利用》の計画をパッと切り替え、疏水を活用して日本で最初の《水力発電所》も完成させる。
進取、大胆、機敏、行動力――青年はかくあれかしと、私は思う。

【婦人部・青年部合同協議会 平成三年九月二十一日(大作全集七十八巻)】