投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月 8日(日)20時17分6秒  

これまた大事な質問ありがとうございます。質問すること自体がすばらしいことであり、就中、核心部分に触れる内容の質問ですね。微力ではありますが、私の思うところを披露したいと思います。

テーマ
「先生は無謬か否か」
無謬:理論や判断にまちがいがないこと

まず、完璧な人間など、この世に存在しません。それはもはや人間とは言えません。人間以上の人間はいないわけであり、先生の指導もそれで一貫されています。「私は人間を超えた存在である」、などという指導は絶対にないのであります。あったら教えてください。つまり、それを言い換えると、「無謬の人間などいない」ということになります。これがすべての大前提となります。

無謬の人間はいないことを前提としながら、師弟について考察していきたいと思います。師弟の関係というのは、「守・破・離」で説明することができます。師弟には三段階あるということです。

第一段階である「守」とは、師から教えを請い、忠実に守り、実践することです。守とは、しっかり身につけていく修行の段階であり、師の教えを絶対(無謬)とし、励むことが大事となります。余計なことは交えず、師の指導通りに行う事。学会内でもよく「先生は間違いないから」という声が飛び交いますが、それは守の段階の言葉です。師の教えを身につけることが肝要であり、そのためには、師を絶対という観点でとらえるのが正しいありかたです。

第二段階の「破」は、守で師の教えを身につけたものを、さらに応用発展させていく状態を指します。日興上人が、御書を心肝に染め極理を師伝してと言われている箇所は「守」に該当し、その後の余裕があれば、台家を聞くべきと言われているのが「破」に該当します。師の精神を、我が精神とし、そのうえでさらなる応用を加えていくことであり、例として、戸田先生は牧口先生の罰論は用いず、功徳論を採用したこと、また創価教育学会から創価学会への改名も応用である。師と同じことをすればいいわけではなく、応用させてこそ価値を生み出せるわけです。師の教えをいかにカスタマイズし、価値あるものとしていくか。それが「破」であり、応用である。ここでは、自身のオリジナルティーに着目することが肝要となります。

第三段階の「離」は、師の根本(守)と、自身のオリジナリティー(破)を集大成させ、独自の境地を切り拓くことである。これこそが真の桜梅桃李であり融通無碍である。師という土壌の上に、自身のオリジナリティーを磨き、そして開花させていくこと。師にとらわれすぎると、自身のオリジナリティーはつぶれてしまう。教条主義ではいけないのはこのためである。そして、当然この段階では師を無謬とは考えることなく、もっと自由に考えることができるし、考えなければならない。大聖人も「この国の仏法流布は貴方に任せました」と言われているように、「任せる」とは、自分で考えよということである。

守破離を意識し、現在自分はどの段階にいるのかを知ること。自身の立ち位置を知れば、さらなる成長が期待できる。師が一番望んでいることは何か。それは、弟子が自分以上の力を身につけることであり、師への最大の報恩は、師を超えた人材への成長することである。「自分以上の人材を育てる」ことが学会活動の眼目であるのも、そのためである。私は、真の師弟不二とは、弟子が師を超えた状態を指すではないかと思うのです。むしろ、師を超えるという覇気がなければ、師弟不二の道を貫くことはできないのではないか。どこかで「先生は別格である」という意識があれば、その時点で追いつけないわけであり、思考が無謬論へと向かってしまう。それを先生が望んでいるとは思えません。

師と対面するのではなく、同じ立場に立ち物事を考えれば、無謬ではないことがわかります。ともあれ、まずは「守」である第一段階からの脱却こそが課題であり、そのターニングポイントは、「自分の頭で考えられるようになること」であると思います。そして宿坊の掲示板は、第二、第三段階の人たちの集まりであると、私は理解しています。