投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 3月 7日(土)11時51分19秒

・虹と創価家族様

私原作の絵本などできようものなら、大変なことになりますよ。グリム童話よりもホラーで寒気のする内容になるでしょう。そして幹部は真っ青。

さて、議論も白熱しているようですが、私の見解も述べておきましょう。ルネッサンスも大事な観点ですが、こと、教義に関することは普遍性、妥当性が求められるものであり、時代がどうこう、状況がどうこうだけで変更することは安易であります。仏意仏勅を名乗り、真の宗教であるという自負があるのなら、文証・理証・現証の三つの観点から厳密に検証していかなくてはなりません。これは基本中の基本であると考えます。

仏意仏勅であるならば、法論においても負けるようなことは許されません。大聖人が法論で敗れたことがあるだろうか。法論とは理詰めであり、言葉一つとっても、問い詰められるものである。「過去や、整合性にこだわるのは死んだ宗教、化石の宗教」「他宗に言われる筋合いはない」などという、非論理的な切り替えしをしたら一体どうなるか。それこそ笑いものであり、それを言ったらおしまいよレベルである。だからこそ、教義を変更するのであれば、穴のないように検証し抜き、論理的に無理があるのなら、変更しないという選択肢も残しておかなくてはならない。進むには勇気が要りますが、退くのはもっと勇気の要ることです。

教学部レポートや遠藤文書の内容を読むと、当然のことを言っているだけであって、私も同じ立場なら、同じような見解を示したと思います。池田先生がどこまで関与しているかは、本当のところはわかりませんが、仮に先生主導で教義変更を推進していたとしたら、「先生も老いたな」と思いますし、レポート通りの内容ならば、「執行部はやらかしたな」と思います。

どちらであったとしても、私は今回の教義変更を一言で表現するならば、「自己満足教義変更」という位置付けです。「創価学会の創価学会による創価学会のための教義変更」であり、学会内の中でしか通用しない論理である。この教義変更の内容で良しとするならば、それはあまりにも仏敵を甘く見過ぎている。大組織の傲りであり、教学部が懸念を表明したのは、至極もっともである。

仏敵に笑われ、隙だらけの教義変更は、自己満足の域を出ることはない。教学部が愕然とするのも無理もありません。無茶は蛮勇であり、ルネッサンスどころか、足元から崩れかねない、ギリギリの崖っぷち状態に、自ら追い込んでしまった。わざわざご苦労なことです。

ルネッサンスをいうのであれば、支援の在り方や新聞啓蒙の在り方等、どしどし現場のニーズに応えて改革してまいりましょう。それのほうが遥かに価値的である。まだまだ世界広宣流布の草創期であり、建設段階なのだから。