投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年11月19日(土)01時25分7秒   通報
◎七月三十一日(自宅にて男子部の最高幹部と)

創価学会をしっかりと守ってもらいたい。
戦いは長い。背伸びはするな。

現実も長期も大事だ。長期に繋がる現実が大事。
短期に勝っても長期に負けたのでは何もならない。

どういうことがあっても退転しない人、そういう人で学会を作ろう。

何があっても疑わない、それが学会っ子だ。

命の惜しくない人は集まれと、検察庁に殴りこむと、マキを持って集まったことがあった。(大阪事件)
戸田先生の叫びだった。
戸田先生の四十九才の八ヶ月のことだった。
戸田先生の事務所で、二階で、二人きりで、戸田先生は座り私は立っていた。
戸田先生が歌を書けと言われ、私は書いた。

『古の奇しき縁に仕えしを 人は変われど我は変わらじ』

戸田先生はメガネを外し、頬を擦り付けるようにして読んだ。

手帳から一ページ切り離して

『逝(い)く度(たび)か戦(いくさ)の庭に起(た)てる身の 捨てず持(たも)つは君が太刀(たち)ぞよ』

もう一つある

『色は褪(あ)せ力は抜けし吾(わ)が王者 死すとも残すは君が冠(かんむり)』

その頃戸田先生はよく歌を書かれた。立派にみえた。私はだめだ。
まるで職工みたいだ。

『太刀』と『冠』だ、これを受け継げばいい。

二十一才。戸田先生が理事長を辞めた時だ。私は愕然とした。
すごい歌をくださったと思った。

この時吾が王者四十九才八ヶ月だ。

創価学会の語り部、本物を語る人が必要だ。

正学館の小さな部屋に戸田先生と僕、もう二人いた。
二人のうちの一人は営業の人で「借金をどうする。返せ」と責めた。

戸田先生はうつろな目で天井を見つめて

「骸(ムクロ)になる、骸になる、死ぬ」

そして理事長を辞めた。
四人の話が終わった。
絶体絶命。進退窮まれり。運命如何にだ。

『大、そばにいてくれ』

僕がそばにいたから戸田先生は幸せだった。

僕は痩せて疲れてぐったりして

『矢島さんが理事長になったら矢島先生になるんですか?』

『こんな師匠だが、俺が師匠だよ』

劇的だった。

『わかりました。じゃ私が一人で必ず仇をとります。矢島を倒します。やります』と言った。

八千万の借金を返して、さらに三百万円を戸田先生にあげた。

二十一才だよ。

金の心配のない世界は観念だ。

先生はこれで死ぬと思っていた。僕も死ぬと思った。
そして事業を再建して、借金を返して、戸田先生は会長になった。

いいか、青年には力があるんだよ。

出し切らないと悔いを残す。

私は五十年、どこを切っても悔いは無い。
◎八月七日(創価大学)

創価学会を守ってもらいたい。
優雅なサラリーマン、宗教貴族にだけはなってはいけない。

殉教がなくなったら学会は終わりだ。
煮ても焼いても叩いても何があってもという精神。

みんなと私は侍だ。目と目が合って。それでいいじゃないか。
◎(一番苦しかったのはどんな時ですか?)

戸田先生の元にいて、いつもいつも苦しかった。

牧口先生の牢獄の苦しみ。戸田先生の牢の苦しみ。事業の失敗。

苦しみ、苦渋、魔との対決があったから楽しい創価学会ができた。

信用組合の差し止め、私が入社して八ヶ月のことだった。
牢に行った方がましだ。
創価学会が事実上崩壊し、
戸田先生は
「広宣流布は一万年かかる」と言われた。

戸田先生が折伏の師匠なら僕が立ち上がる、と立ち上がったんだ。

戸田先生の苦悩は測り知れない。

幹部は苦しみ、民衆を楽しませる。

幹部は犠牲になっていくんだ。
◎三十二年の七月三日、大阪事件のため北海道から大阪。

東京で乗り換えた。
戸田先生が見送りにきていた。

タラップを降りたら戸田先生がいた。

戸田先生はそのために何年も命を縮めた。

何年かたってそのことが重くのしかかってくる。
それほど不思議な先生だった。

戸田先生の亡くなる一年前で、座っていることもできない状態だった。

運命如何に。
『お前が牢で死んだら、俺も死ぬ。その屍の上に突っ伏して俺も死ぬ。
大、行って来い』
そう言われた。