投稿者:カンピース 投稿日:2016年11月15日(火)16時44分10秒   通報
原田怪鳥様曰く、
「財務は、世界広布の大願を成就しゆくための御本仏への御供養に通じ、これに勝る大善はありません」(11・11政教珍聞)

発言を擁護する反宿坊の掲示板(ボケカス反板)「たった一人で登場しました人びと」の引用部分
「学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のためのものである。大聖人の立てられた大願を成就するために行う供養は、御本仏への供養に通じよう。ならば、これに勝る供養もなければ大善もない。」
(新・人間革命第4巻、凱旋より引用)

一見、もっともそうな引用である。原田怪鳥は新・人革にある先生の御指導を引用されたのだと・・・・

しかし、この「凱旋」の章をよく読めば、大いなるカン違いがわかろうというものだ。

まず前段で、この当時の現状が語られる。大客殿の建設に伴い、莫大な費用がかかること。そして戸田先生の心境がつづられる。
「私も貧しい学会員に供養を勧めるが、これをしなければ、功徳を受けることもできないし、広宣流布もできなくなってしまうからである。しかし、そのたびに、私は泣いている」 伸一には、戸田のその心がよくわかった。彼も同じ思いであったからである。
(新・人間革命第4巻、凱旋より引用)

つまり、大客殿の建設という膨大な費用がかかる事業を前にして、本来ならば、戸田なり、少数の財務部員なりだけでまかないたい。

しかし、広宣流布への貢献のため、供養の功徳のため、泣いて供養をお願いするという苦しい立場からの財務依頼であったことが分かる。

さらに、山本伸一は、御書を引き、思索する。

「衆生身心御書」を拝して、彼は考える。

「設いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、設い心をろかに・すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何に況や心ざしありて・まことの法を供養せん人人をや」(P1595)

>たとえ、功徳善根を積んでも、真実でない人を供養すれば、大悪とはなっても善とはならない。たとえ信心が薄く、少しの物の供養であっても、真実の人に供養すれば、功徳は大きい。まして厚い志をもって、真実の法を供養する人びとの功徳は、どれほど大きいか計り知れない<
(新・人間革命第4巻、凱旋より引用)

ここまで読めば、師匠の供養に対する考えがわかろうというものだ。金額の大小ではない、志の大小が問題であること。

決して財務第一ではない。普段の活動が、信心の実践が最重要であって、財務は「できればやればよい」ものであるということだ。

では、原田怪鳥の言う事はどうだろうか? 本部幹部会という公式の場で、「折伏」より「御書」よりもさきに「財務が大善」と言い放つ者にはたして真実があるのか?

会則・教義を何回も勝手に変え、御観念文を変え、「御本尊を認定できる権能」があるとしながら、いまだに御本尊を認定していない団体に真実があるのか?

師匠の名を勝手に利用し、祝電を打つ姿勢に、真実があるのか?

今の創価学会への供養はまさに御書にあるとおり、「大悪とはなっても善とはならない」ことであろう。