投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年11月14日(月)19時23分11秒   通報
<総じての師弟不二>

私達、大聖人の仏法を修行する全ての人々が、大聖人を「根本の師匠」として、つまり
「末法の法華経の行者=人法一箇の御本尊」に帰命して唱題する時、それぞれの生命に潜んでいた
大聖人と同じ生命境涯である「仏界の生命=久遠元初の自受用報身如来」が、顕現してきます。

そうした広い意味で、大聖人は総ての修行者の根本の師であり、総ての修行者は大聖人の弟子と
いえるのではないでしょうか。
大聖人の直弟子とは言えないまでも、日興上人の後を継ぐように、仏が弟子を自分と同じ境涯に引き上げようとする慈愛に呼応して、私達弟子が不自借身命の信心をする時、又その関係も「師弟不二」に昇華すると思うのです。

「外にある道」の神と信者の関係と違って、仏法は、偉大な人間(仏)と成長しようとする人間(衆生)との間断なき生命の交流です。
弟子のその決意と実践の中に「師弟不二」は生きていると思います。
これを総じての師弟不二と呼べないでしょうか。

翻って、では私達が呼ぶ創価の三代会長、なかんずく、池田先生との「師弟」の関係は、大聖人(仏)と弟子(修行者)の関係とどう違うのでしょうか。

今はフロントラインから引いてはいますが、先生は学会の中で大聖人の仏法を広める広宣流布のリーダーです。
世の中には過去、現在に渡って人権闘争の英雄はたくさんいますが、三代の会長が他の人達と違うのは大聖人の仏法をその行動の基点にしていることです。

精神性を高める為だけのレベルでよしとするなら、自己啓発の師匠も他にもいくらでもいます。
しかし創価の三代がそういう人達と一線を画しているのは、大聖人の宿業転換の法理を生命や社会の変革活動の土台にしている事にあります。

そういう意味で又大聖人との師弟と次元は違いますが、三代会長との師弟の絆がある訳です。

ですから、もし、組織がいくら先生の名前や指導を使っていても、その背後で意図的に大聖人の存在が貶められ、自分達の方向性に見合う様な極度に厳選された先生の指導だけを使うのであるなら、何もわからないまま其の上に築かされたメンバー達の師弟不二観は本来の意図からはずれます。

いかに先生のすばらしい指導であっても、そこに大聖人の鼓動が脈打ってなければ、それは「外にある道」のレベルに過ぎなくなるからです。

しかし、残念ながら今SGIの多くの国で現在謳われているのが、この様に凧の糸が切れた様な「師弟不二」のまちがった合唱であります。

そこには、創価の三代が不自借身命の戦いで築いてきた広布の城の姿は見えません。

そして、その間違った師弟不二と並行する様に、今組織は「創価学会仏」という仏を立てようしています。
それは仏の宝である大聖人を排除し、その座に創価学会を仏として差し替える事になります。
それは引いていえば、法の宝である御本尊も、組織のリーダーが思う様に変えていくことにもなるでしょう。

就中、組織への忠誠心を価値観の中心におくなど、全体主義の何物でもないでしょうし、そこに独裁主義の萌芽を感じるのは私だけではないでしょう。
そういう例が過去に悲惨な歴史を生んだのはみんなの知るところです。

私達は目を見開いて組織の動向を察知していく義務があるのではないでしょうか。