投稿者:螺髪 投稿日:2016年11月13日(日)22時26分49秒   通報 編集済
「21世紀への対話」に学ぶ『仏法の三諦と、究極の精神的実在』=下=
「認識論としての三諦論」

池田 「あらゆる存在は、それをどの角度から把握するかによって、種々の姿を呈します。宇宙、自然、人間生命などについても、それらへのアプローチの仕方によって、人間の眼に映る様相は異なってきます。
万物の様相についての、人間の認識の仕方が異なるというだけですむなら、話は簡単です。しかし、認識は必ず人間に影響を与え、思考作用から行動までも左右します。極端な例かも知れませんが、人間生命をたんなる物質の運動形態にすぎないなどと認識してしまった場合、生命の尊厳などは一顧もされないことになるでしょう。
とするならば、可能であるかどうかは別として、――厳密な意味でいった場合――万物のありのままの姿を、そのもの自体に即して、ありのままに描き出し、認識しようとする努力が必要ではないかと思います。

そこで、万物を、できるだけそのものに即して把握しようとすれば、分析と総合との両方の作業が行わなければならないでしょう。つまり、部分を注視するとともに、全体観を見失ってはならないということです。また、たんに静的に見るのではなく、時間的な流れを考慮に入れて、動的に認識することが必要でしょう」

トインビー 「ただいまの御提言は、事物の実相を把握するには二つの条件が必要であるということでした。一つは、部分を微視的に見るだけでなく、全体を巨視的に見る必要もあるということ、もう一つは、時間の次元において事物を動的に見る必要があるということでした。
私はいま、これらの条件を主張してくださったことに、励まされる思いです。なぜなら、私自身、現代西欧の思潮に反発してきた結果、これら二つの条件の重要性を感ずるようになってきたからです」

池田 「なるほど、よくわかります。そのなかで、博士はとくにどのような点から、二つの見方の重要性を感じられましたか」

トインビー 「私の見解では、現代の西欧思想は、極端な専門化を推し進めてきたために毒されています。そもそも、人間精神に映る実在の一断片の像が歪んでとらえられるのは、次のような場合です。
すなわち、その一断片を恣意的に周囲の環境から切り離し、あたかも一個の独立した全体像ででもあるかのように、また、あたかも、より包括的な何ものかの不可分の一部ではないかのように――事実はそうであるのに――考えて研究するような場合がそれです。
私はまた、現代西欧の社会学的分析は、現実からかけ離れたものだと思っています。これは、生命がまるで静的生命でであるかのように、人間事象を過去や未来から切り離し、非現実的な瞬時的断面において分析しているためです。しかし、現実には、生命とは動的なものであり、時間の流れのなかで流動的にとらえなければ、ありのまま姿を見ることはできません」

池田 「同感です。そのような考えのうえから、私は、仏法における認識論の一つをあげ、博士の所感をお聞きしたいと思います。
仏法の認識論の根幹をなすものの一つに“三諦論”があります。“三諦”の“諦”とは“つまびらか”もしくは“あきらか”という意味です。さきに述べました“空”“仮”“中”の立場を考慮しつつ、あらゆる物の姿、本質をみるときに、そのものの実相を把握できるというのです。

“三諦”の三つの立場のうち、“仮諦”とは、そのものの外面に顕現し、人間の感覚によって近くすることのできる映像が、これに相当すると考えられます。われわれの肉体にしても、宇宙の流転にしても、万物は一瞬といえどもとどまることはありません。われわれの身体も、たえず新陳代謝を繰り返し、固定した静態ではなく、ダイナミックに動いています。その姿が、映像として知覚されるわけです。しかし、知覚されたその姿そのものは“仮のもの”としかいいようがありません。

この“仮諦”に対して、“空諦”とは、あらゆる現象の特質を指します。それは実在としてとらえることはできませんが、まさにこれを無視しては、実在を正しくとらえることはできません。
“中諦”とは、これらの“仮諦”“空諦”を包含した本質の実在を指します。それは、姿、形などを顕現させ、あるいはそのものの特性や性分を決める生命の本源的実在であり、姿や形が変動しても、その中に一貫して貫かれる不変のものです。“中諦”といっても、“仮諦”“空諦”の中に現れるのであり、それらを離れて、別の存在としての“中諦”があるわけではありません。

万物の実相は、この“空”“仮”“中”が一体となり、それが三つの現れ方をしていると考えられます。また、そのように見ていくときに、誤りのない認識ができると、仏法では説いています。あらゆるものの実相を、そのままつかみとるには、仏法に説かれる“三諦”のような認識の仕方が有効であろうとおもうのです」

トインビー 「その“三諦”という理論で私が想起するのは、プラトンンが行った対比です。それは、たえず流動してやまない――貴説の“仮諦”にあたる――諸現象と、“究極の実在”がその諸現象に反映されたものである不変の形相――貴説の“中”――との対比です。ところが、仏法の分析においては、そこに中間的な名辞“空”が介在して、この二つの対極的な存在の様相を結び合わせています。そして、この“空”とは、現象的なものでも絶対的なものでもなく、それでいて両方の様相を包含してるわけですね」

池田 「おっしゃる通り、“空”の有無を除けば、仏法の三諦論とプラトンの理論は似ている言えますね」

トインビー 「ただし、“究極の実在”すなわち“中諦”は“空”と“仮”を通してのみ現れ、それ自体単独で現れることはないという命題については、私の解釈が正しいとすれば、これは永久的な形相と一時的な現象との関係におけるプラトンの概念よりも、むしろアリストテレスの概念に相当するもののようです。アリストテレスの見解によれば、プラトンは現象を過小評価していたというのです。
たしかに現象は一時的なものですが、その現象こそが、人間精神をして、われわれの限られた知力では把握しえない“究極の実在”を、多少なりとも垣間見させてくれるのです。アリストテレスはまた、現象に反映される不変の形相が、現象から独立して存在するというプラトンの想定は、誤りであるとしています。

古代ギリシャ哲学は、私にとって最もなじみ深いものです。私には、仏法の“三諦論”は、アリストテレスの修正プラトニズムによく似たもののように思われます。ただし、中間的名辞の“空”が介在していることによって、仏法の場合個別的なものと普遍的なものとの関係が、さらにわかりやすくなっていると思います。
また“三諦論”は、近代西欧の哲学者ヘーゲルによる“正”(テーゼ)、“反”(アンチテーゼ)の対立から“合”(ジンテーゼ)が生ずるとする概念んも、ある程度類似性があるようにも思われます。少なくとも、この三つの名辞からなるヘーゲルの理論は、仏法のそれと同じく動的なものです。この理論では、実在を時間次元において変化するものとみています。

これに対して、プラトンやアリストテレスの二名辞的理論は、静的なものであり、この点では、現代西欧の社会学者たちが、時間次元を無視して、瞬時的断面において人間事象を分析しているのと同じです。私には、時間次元を考慮に入れた動的な理論のほうが、より現実に即しているように思われます」(21世紀への対話<下>274~279㌻)

~このあと十界論、十如是論が展開されます~

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