投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月22日(日)22時49分16秒  

池田先生 師弟の宝冠VOL.5より
「格好主義では発展はない。どうしたら現実に広宣流布を進めていけるか。この一点を一生懸命、祈りに祈り、苦労し抜いていくのがリーダーだ。」

私は、実質主義者である。もちろん、何事にも原則と例外が存在することは、前提であることは言うまでもありませんが、一応言っておきます。現場をつぶさに見渡すと、実質的に広宣流布が進んでいるどうかを検証すると、答えはNOと言わざるを得ないのが現状ではないか。

学会の戦いの数字は、いくらかごまかしが可能であり、数字のみを見て、組織を判断するのは素人である。折伏は分世帯、新聞は多部数購読、選挙は水増し報告等で、小細工することができる。しかし、肝心な中身が伴わない。本来折伏一つとっても、どれだけ大変か。何か月も勤行指導をして、時には10時間唱題もあげ、それでも決まらなかったこともあります。何十人と対話して、その中で一人、二人が勤行をはじめ、入信にいたる。入信してからもまた戦いであり、そこから続けていけるかどうかもさらなる関門となる。私の折伏相手が入信した理由として言っていたことは、「ここまで自分のことを思ってくれるのか」、そう感じたからであると。

数字だけでは感動は生まれない。聞きたいのは魂震えるエピソードであり、会合一つとっても、幹部は参加者を感動させられるかどうかが一つの勝負点となる。御書の研鑽においても、大聖人の振る舞いに触れ、自身を感動させ、発心させていくことが肝要であり、教学力をつけることは二の次である。

人は何で発心するかはわからない。ある先輩の発心理由は、「一人の青年のさわやかな振る舞い」を挙げていました。それまではどんな人が対話に来ても、馬鹿にし、論破をしていたそうですが、一人の青年のちょっとした振る舞いに感動して、信心をはじめたとのこと。人の心は不思議であり、軽々に判断はできないものです。

1998年6月にノートに記している池田先生の指導(おそらく本幹)
「火花を散らすような峻厳なる攻防戦を勝利せずして、どんなに活躍している格好を見せても、もはや遊戯に過ぎない。『進んでいる』のではなく『踊っている』だけである。」

進んでいるのか、その場で踊っているだけなのか。踊っているだけならば、無駄なことをやっている場合ではなくなる。私は、広宣流布というのは、全身全霊を尽くしてはじめて、一歩進むか進まないかの世界だと考えていますし、それが実感でもあります。仏の仕事を凡夫が代わりに推進するのだから、当然といえば当然でしょう。

本当に広宣流布を推進したいのであれば、新聞拡大月間を設けるよりも、新聞縮小月間を設けたほうが、はるかに価値的ではないかと考えてしまいます。無駄な多部数購読をやめさせてあげたほうが、現場の士気は上がるのではないか。中には、泣いて喜ぶ人もいたりして。「新聞550万部?そんなの知らねーよ」、これが現場感覚というものではないでしょうか。

数字にとらわれた活動には歓喜はない。歓喜というものは伝染するものであり、それがなくなれば感動も生まれない。そのような世界には人は集まらなくなり、結果、人材も枯渇していく。これ、広宣流布にとってマイナスである。このような状況からいかに脱却するかが、組織人としての戦いであり、現在ぶつかっている壁ではないでしょうか。