投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年11月 2日(水)16時50分42秒   通報
「寿量品の自我偈には『方便現涅槃』とあり、死は一つの方便であると説かれている。

たとえば、眠るということは、起きて活動するという
人間本来の目的からみれば、単なる方便である。

人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、
眠らないと疲労は取れないし、はつらつたる働きもできないのである。

そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合、
どうしても死という方便において〝若さ〟を取り返す以外にない。

我々の心の働きをみるに、喜んだとしても、その喜びは時間がたつと消えてなくなる。
その喜びは霊魂のようなものが、どこかへいってしまったわけではないが、

心のどこかへ溶けこんで、どこをさがしてもないのである。

しかし、何時間か何日間かのあと、また同じ喜びが起こるのである。

また、あることによって悲しんだとする。何時間か何日かすぎて、
そのことを思い出して、また同じ悲しみが生ずることがある。

人はよく悲しみを新たにしたというけれど、前の悲しみと、あとの悲しみと、
立派な連続があって、その中間はどこにもないのである。

同じような現象が、我々、日常の眠りの場合にある。

眠っている間は心はどこにもない。しかし、目を覚ますやいなや心は活動する。
眠った場合には心がなくて、起きている場合には心がある。

有るのが本当か、無いのが本当か。
有るといえば無いし、無いとすれば、あらわれてくる。

このように〝有無〟を論ずることができないとする考え方を『空観』とも『妙』ともいうのである。

この小宇宙である我々の肉体から、心とか、心の働きとかいうものを思索して、
これを仏法の哲学の教えを受けて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。

宇宙は即生命であるゆえに、我々が死んだとする。

死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみの間に何もなかったように、
喜びと喜びがどこにもなかったように、眠っている間、その心がどこにもないように、

死後の生命は宇宙の大生命に溶けこんで、どこを探してもないのである。

霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。
大自然のなかに溶けこんだとしても、決して安息しているとは限らないのである。