投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年11月 2日(水)13時51分47秒   通報
では、生死を〝三諦〟の関係でとらえていけば、
どうなるかというと上記の大聖人の文にもあるように、

生は仮諦、死は空諦、生死ともに貫く生命の本質は中諦(中道)になります。

つまり、

生はあくまでも生成・発展していく現実の姿(仮和合)が中心であり、
死は目に見えない性分(空諦)が大宇宙の生命に冥伏していますが、

生死のなかに一貫して流れる我(中諦)は不変の生命です。
しかも、この三諦は〝円融三諦〟といって決してバラバラのものではありません。

だから、生のときは仮諦(現実の姿)がおもてであっても、根底には宇宙自体と
冥合している自己の存在があり、宇宙の生命と切り離したものではないのです。

また、その変化の姿である生成・発展(仮諦)のなかにも、
不変の生命(中諦)は厳然と実在しています。

また、死後の生命が大宇宙のなかに冥伏しているといっても、
縁にふれれば具体的に有形のものとして現れてくる特性、特質、生命の本質をもっています。

決して永久の〝無〟に帰するものではないのです。

要するに、仮諦のなかに空諦も中諦もあるということであり、
空諦のなかにも仮諦、中諦が含まれているということです。

この生死にわたって連続していく生命それ自体が、善悪の業を感じているのです。

話は変わりますが、

かつて日本の神道が国家主義、全体主義に利用され、
無謀な太平洋戦争にまで発展した時代がありました。

その時、牧口・戸田両先生は当時の宗教政策で「日本国民に神社の礼拝を強制する」ことの
非論理的、非道徳的な説を訴え、それがために罪なくして囚われ、牧口先生は獄死――。

戸田先生は二年におよぶ獄中生活を送りました。

その獄中生活のなかで、生命の本質をつかんだ戸田先生の「生命論」を抜粋して紹介したいと思います。
・・・つづく。(夕方ぐらい)