投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月16日(月)21時07分53秒  

法華経の智慧 如来寿量品 永遠の生命より(下)より

日寛上人
「私(日寛上人)は、ふだんからソバが好きだから、臨終の時に、ソバを食べ、一声、大いに笑って題目を唱えて死ぬことにしよう。もしも、この通りになれば、私が説いたことを一文一句疑ってはならない」

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そして、その通りになったと。さて、この一文一句の中には、大御本尊のことは含まれるのか含まれないのか。日寛上人が「ただし、大御本尊に関することは除く」と言ってくれていればよいわけですが、そんな発言はないわけで。御本尊の教義の解釈を変更するということは、こういった発言に関しても検証していかなくてはいけなくなるわけです。過去は過去と、まさか徳政令の如く、なかったものにすることなどできようはずがない。

法主の信心が狂い、大石寺が謗法の山と化したことと、教義に関することは別次元の話である。宗門の謗法をいいことに、何でもかんでも宗門はダメというわけにはいかない。これをごっちゃに考えてしまうと、ただの感情であり、本質がわからなくなる。

多くの活動家は、教義云々というよりも、宗門に対する嫌悪感が先にあるので、思考も単純化し、「謗法宗門と別れることができてよかった」と、その程度の認識になりがちでしょう。学会の渾身のボケに対して、一度ツッコミを入れるくらいの余裕と思考力がないと、世界広布どころではないでしょう。「いやいやいやいや、日寛上人、一文一句って言ってますやん!」と。過去の指導等をほじくり返せば、ツッコミどころがたんまり出てきてしまう。それをあたかもなかったかのようにスルーしているのが、現学会といったところでしょうか。

大御本尊という概念をなくすために、わざわざ出世の本懐まで変更したわけですが、結局、出世の本懐に関しては、誰も正解がわからないわけで、手をつけるということは新たな問題が勃発することを意味します。不確かなものを、たとえ結果的に正しかったとしても、変更することは非論理的であり、軽率である。そこに果たして英知はあるのか、世界基準といえるのか。指導者はこういうところまで考えなければ、誤った方向へと向かってしまう。

ともあれ、無理して強行突破する局面ではないのに、暴走してしまったというのが実情であり、その非を認めようとしないのが執行部でしょう。人生も信心も勇気であると言われますが、一番勇気のいることとは何か。私は、「自分の間違いを認めること」であると考えます。人は間違いを犯します。もちろん自分も例外ではありません。誰でも他人に言えないような間違いや失敗、過ちの一つや二つ、抱えているものでしょう。

間違っても、自分の過ちを認められないことを起因として、心ある正義の会員を苦しめたり、除名にしたりしてはならないのです。それは勇気の欠如であり、人として最も格好の悪い姿でもある。これほどの醜態はなく、まさに御書にある、「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ」(p912)なのである。