投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月18日(日)13時36分43秒  

「自我得仏来」
仏法は自得であり、それがアルベア様の言うところの「体感・体験」ということではないか。これを前提に話を進めていきたいと思います。

人間革命10巻に「その彼(山本伸一)の作戦の根本は、戸田の指針とまったく同一であった。不二であった。彼には戸田の指導を理解しようなどという努力は、すでに不必要であった」と。

理解する必要すらないということは、すでに体得しているということでしょう。師と同じ一念だから、師の意図していることが手に取るようにわかる。ここが師弟不二の信心の真髄部分であると思います。

戸田先生においても、「死罪にも値する」との自身の一念を自省され、日蓮大聖人の一念に合致させた。そしてそれが具体的な形となってあらわれたのが、75万世帯という数字だったのではないか。凡夫中心の一念から仏中心の一念への転換、これが個々においての発迹顕本ではないか。

信心を深めていくと、必ず三障四魔があらわれます。「信心しているのに何で?」と疑う局面はやってきます。三障四魔というのは、自身の御本尊不信の命が魔となってあらわれることをいいます。この時にどうするのか。ここが勝負の分かれ目となりましょう。

三障四魔があらわれた時こそが、凡夫の一念を破り、仏の一念へと転換するチャンスであるととらえることが肝要でしょう。そのためには、自身の一念への「自省」をすることが不可欠となります。「なんでこんなことになったんだ」と悶え苦しんでいる間は、何も変わらない。そこには自省も存在しない。
自身の一念と向き合い、改め、もう一段深い信心で題目をあげること。これこそが信心であり、そこで得たものが体感・体験でしょう。

信心とは自身の生命を変革する壮絶な戦いであり、「なんでも夢がかなって、バラ色です」などという甘いものではない。これから入信して、信心する人はその覚悟で取り組んでもらいたいものです。信心をするということは、自分自身との大闘争を開始するということなのです。

そして、自身の一念と仏の一念が合致したときに、宿命は使命と変わり、願兼於業の法理へと転換される。自身の本来の使命に目覚める転換点、それは信心を深めればやってきます。

一見、罰のような苦しみも、自身の信心を深めるための功徳であり、そのように捉えるところに信心があります。良いことも悪いことも、すべて価値に変える。信心を深めるためのものと達観した信心へと昇華させる。
これが仏道修行であり、何があってもブレない信心を構築していくことが重要なのです。

仏法は厳しいが故に、持続することがどれだけ大変なことか。この一点を見ても、おわかりでしょう。

師弟不二の信心を自得し、発迹顕本していくことが、人生で一番大事なことであり、それを為さずに一生を終えるのならば、後悔あるべしなのです。