投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年10月 9日(日)19時03分46秒   通報
あまりにも感動したので、ご紹介させていただきます。
学園生の方、特に12期生の方がいらっしゃたら、ぜひお読みください。

2月8日、担当している裁判の準備で早朝から家を出、聖教新聞を
読むことができなかった。日も暮れて急に気温が下がり、東京に
今年初めての雪が、嵐のようにふぶいた。

この日の夜の会合は、都内某区の広宣部大学校の出発式。
都内でも初の試みで、聞けば創価班大学校の卒業生がほぼ全員、
こちらで仏敵破折の研修をするという。

それにしてもこんなに吹雪いているのに本当に会合やるのかな、
と思いつつ、9時ぎりぎりに会場にかけこんだ。
勤行をし、2人の区幹部の方が話をされた。
若者たちの反応をみていると、どうもつまらなそうだ。
私は自分の原体験となった学園の話をした。
中学3年のとき、反池田の教員が担任で、英語研究室に
遊びにいくと、いつも山積みの週刊誌を読まされ、
「君たちは世界の指導者になると言っているけれど、
それなら盲信はいけない。右も左もよく知って、自分で
判断しないといけない」もっともだと思った私は週刊誌を読んだ。
がらがらと何かが崩壊し、心のなかにべっとりとした嫌な疑心が宿った。

「念仏を唱えたことなんてないのに、どうして南無妙法蓮華経が
一番だといえるのか」
「どうして先生が師匠なんですか。比較対称の結果、選んだわけじゃないのに」
当時の自分にとっては至極あたりまえの、論理的な疑問に多くの先生方が
いやな顔をした。
「おまえは将来山友になる」といわれたこともあった。
「そうか、僕は裏切り者になって、みんなに笑われていくんだ」と
思って悲しかった。

寮の廃止という、生徒にとって残酷な現実も進行していた。
後輩が入ってこない。
第2寮が壊され、第1寮も壊された。それまで毎日寮にきていた
学校の先生たちも「教員が宗教教育をしてはいけない」という大義の
もとに誰も訪れず、藤野先生と言うおじいちゃんが、ひとりで
面倒みてくれるようになった。

池田先生が嫌いになっていた。すべてのことが「先生の判断」として
語られていたから。
昭和54年4月24日。先生勇退のニュースを昼頃知った。
夕方、寮の食堂のテレビで先生の会見をみた。 テレビの前には
人が群がっていた。僕は食事委員で、食堂の床を雑巾でこすっていた。
遠目にみたテレビの先生の声。なにか大きな柱が倒れたような感触と、
創価学会が敗北したくやしさ。 言葉にならない思いがあふれて、

普段は先生の悪口を言っているくせに、涙がでてきた。
頭をリーゼントにした高3の先輩が、目頭を抑えて
食堂から走り出ていった。

先生が栄光第一寮を回られたのは、創価小学校で芋掘り大会が
行われた日だ。僕も勤行をさぼって部屋で寝ていた。
そもうち「先生が寮を回ってる」という嘘みたいな
話が廊下に響いた。先生が「勤行の時間だよ」と寝ている先輩を起こし
「誰やねん」「先生だよ」「何先生やねん」「池田先生だよ」
というパロディのような話を演じた11期生の先輩も、
今は第2総東京の教学部長として、また創価大学の教員として
弟子の道を歩んでいる。

寮を回った先生が4階の僕の部屋についた頃には、掃除もおわり、
僕の机を見られて「よく勉強している机だね」とおっしゃった。
誰もがここで終わりと思ったのに、先生は寮の屋上にまでいかれた。
高校3年生がタバコを散乱させていた場所だ。
「すった子を呼びなさい」と先生が言われ、だれもが
「やばい、しかられる」と思った。ところが先生は
「一緒に掃除をしよう」といって、箒を手に取った。

そのあと緊急の会食会になった。寮の食堂でみんないいかげんな、
追いコンのような出し物をやった。潤吉が馬鹿騒ぎをし、
高岡さんが上半身はだかで、エッサッサをやった。
このエッサッサは高岡・石橋という陸上部によって開発され、
12期では石木が受け継いだが、そのあとやった者はいたのかな。

牧野校長が頭から汗を噴出していた。池田先生は腹を抱えて笑っていた。
「ああ、先生ってこういうノリが分かるんだ」と思って妙にうれしかった。
昭和55年3月16日。10期生の先輩の卒業式。僕はえらく荒れていた。
むかついてむかついて仕方がなかった。というのも学校に父兄があふれ、
先生が卒業式から謝恩会の会場である体育館へ移動する渡り廊下のところに、
黄色い声がざわめき、人がたかっていたからだ。

そのとき反対の正門のところには小鯛君がぽつんと門番の役員をしていた。
ざわめきと静寂の対比に僕は切れていた。「なんや学会のくそババア。
普段は『陰の人を大切に』なんて言ってるくせに、みてりゃさっきから誰も
小鯛に声かけてないじゃないか。所詮そんなもんだよ。偽善だよ。

池田先生もいい気になってんだよ。いいんだ、俺が小鯛のそばにいてやるんだ」
そういって僕はひねくれ、小鯛のところで先生の悪口を言っていた。
するとトントンと肩をたたかれた。驚いてふりむくと、そこに池田先生がいた。
先生は体育館の方を指差し「ぼく、謝恩会さぼるから。いっしょにお好み焼でも
食べにいこう。どこかお店はあるかな」 先生と二人きりで学園の前の狭い道を
歩き出したのである。完全に気持ちが宙に浮いていた。先生の取り巻きも誰も
いないのだ。このころの先生は一人で歩かれることがしばしばあった。

結局お好み焼やは休みで、僕と先生は誰も人のいない「栄光クラブ」に入って、
食堂のいすに座った。先生はタバコをだして、「君は吸うのか」と聞かれた。
あとはまるで未来部の担当者が話すような、たわいのない話だったと思う。
でも、学校の先生でさえしてくれないことを、池田先生がしてくれている
ということだけはわかった。

このあとみんなに先生が発見され、記念写真をとっていただいた。
僕はこのときの写真を仏壇に飾っている。
その後の僕は大学を外部に逃げ、学会活動も逃げていった。遊びほうけて
どんどんダメになっていくのも感じ、12期の仲間には心配もされ、
迷惑もかけた。25歳になったころ男子部のいい先輩に起こされ、
腹をきめて活動をはじめた。28歳のとき、はじめて妙観講と対論をやり、
座談会の研究発表で学んだ御書だけで勝ったが、

そのとき相手の若造が教義で負けたのに「池田はよう、名誉ほしさに金をばらまいて
いるんだぜ」と言った。
この言葉に僕は切れた。「おまえ、池田先生を知ってんのか。
知って物を言ってんのか」 言いながら、僕のなかで何かがあふれていた。
生命の奥底に刻まれていた「池田先生」が、
あふれていた。男子部をやるようになってからでさえ、「自分は先生の
弟子じゃないみたい」と感じていたのに、僕も先生の弟子だったんっだと
このとき初めて感じた。こんな生命があるなんて、と言葉もなかった。

魔物は言葉によって生命を巣くっていく。僕は不思議のえにしで、
今悪と闘争している。それは石ころを対岸から悪に向かって投げるだけの
ものとは違う。悪との闘争とは、相手の刃物と刺し違えるつもりか、
相手を抱きこんで共に海底に沈む覚悟で初めてなせる。

こんな話をしながら、研修を終え、家に帰ってくると、先ほどの会合の中心者から
電話があった。今日の聖教を読んだか。読んでいないのなら、読んでみてください。

ある日 ある時ふと 私は妻に漏らした「嫉妬うず巻く日本を去ろう
世界が待っているから」その時 妻は微笑んで言った「あなたには 学園生がいます
学園生は どうするのですか? きっと 寂しがりますよ」

そうだ!そうだ 学園がある!未来の生命たる学園生がいる!君たちのためなら私は
いかなる迫害もいかなる中傷もいかなる試練もまったく眼中にない

一九七九年(昭和五十四年)せめてもの思いで訪れた東京校の栄光寮生徒たちに
声を掛けながら各部屋を歩いた「健康に気をつけてね」「お父さん お母さんに
心配かけないように」ちらかし放題の部屋もあっただがみな わが子だみな
元気だったみな若獅子であった何よりも師弟の道を熟知している彼らであった
本当に会えることが嬉しかった

先生はあのときの僕たちのことさえも「みな若獅子であった 何よりも
師弟の道を熟知している 彼らであった」と綴ってくださっていた。
「おまえは反逆者になる」「将来は山友だ」とかつて言われていた僕は、先生の言葉
を読みながら胸が震えた。今世では、もはや欲するものはない。得たいのは、
あだ討ちの首である。 学園12期のみなさんは覚えていらっしゃることだろう。

「獅子の子は 獅子と育てや 栄光祭」

池田先生の弟子と生まれ、あの時代を学園で過ごせたことを、今最大の誇りと使命に
感じる。いよいよ21世紀の舞台に立つ。
以上12期のメンバーにあてたメールです。