投稿者:無冠 投稿日:2016年 9月16日(金)20時08分23秒   通報 編集済
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2009-10-28 【新時代第23回本部幹部会】

●大晴天も祝福!
 一、きょうは、大晴天の本部幹部会となりました。みんな、元気そうで、本当にうれしい! いつも、ありがとう!(大拍手)
 私からは、懇談的に話をさせていただきたい。
 私どもが唱える南無妙法蓮華経は、永遠不滅の勝利の法である。
 ゆえに、それを持ち、唱えた人が、不景気に沈んでいたり、負け人であったり、情けない人生の敗残兵になることなど、絶対にないのである。
 私たちは、人間にとっての最高峰の法を持っている。宝剣を持っている。財宝を持っている。
 それが妙法だ。
 ゆえに、断じて負けない。どんなに苦しいこと、辛いことがあっても、最後は必ず勝つ。
 それが仏法である。皆さん、頑張ろう!(大拍手)
 戸田先生は、悠然とされ、「お金は、世の中に、いくらでも回っているのだから、福運によって、上手に穴をあけられれば、こっちにドーツと入ってくるものだよ」と語っておられた。
 大事なのは「信心」である。変化、変化の時こそ、確かなる「原点」を忘れてはならない。

●人材を見つけよ登用し、伸ばせ
 一、さらに上村(松園)画伯の言葉を紹介したい。
 「よい人間でなければよい芸術は生まれない。これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体に言える言葉である」(青眉抄』)
 その通りだと思う。
 一切は人間で決まる。人材で決まる。
 人材を見つけ、人材を登用し、人材を伸ばしていくことである。
 画伯はまた、当時の絵画の世界で、師匠を自分の出世の道具に使うような風潮があることに警告を発して、こう綴っている。
 「この人ならばと目指して弟子入りした人であるとするならば、その師匠こそこの世で唯一人の頼む人で 他には比較されるべき人さえない筈なのです」(『青眉抄その後』、現代表記に改めた)
 どこの世界でも、師弟はある。
 しかし、自分が功を成すことを急いで、お世話になった師匠を利用し、ないがしろにする。そういう不知恩の弟子にだけは、絶対になってはならない。その画伯の心が、私には、よく分かる。

●「難こそ安楽」
 一、画伯は、次のようにも記している。
 「凝ッと押し堪えて、今に見ろ、思い知らしてやると涙と一緒に歯を食いしばらされたことが幾度あったか知れません」(同)
 「人生には雨があり風があり、沈むばかりに船が傾くことがありますように、私もさまざまな艱難辛苦の時を経てまいりました」(同)
 「これほど苦しむなら生きているより死んだ方が、楽に違いないと本気で思ったことが、幾度もございました。そんな所を、幾度も通り抜けますと、人はほんとうに、強く強く生きられるものでございます」(同)
 何の悩みも、苦労もない。困難もない。それが幸福なのではない。
 大聖人は、「難来るを以て安楽と意得可きなり」(御書750ページ)と仰せである。
 厳しい試練が襲い来るたびに、「自分が強くなるチャンスだ!」と喜び勇んで立ち向かっていくことだ。それが、学会精神である。仏法の真髄の生き方である。
 その「戦う心」の中にこそ、幸福があり、勝利があり、満足がある。
 〈上村松園画伯の「美人画」は東京富士美術館の「女性美の500年」展(2001年)などで展示され、「東洋の洗練された美」が鑑賞者を魅了した〉

●友には温かく! 笑顔を忘れるな
 一、わかりやすく語る。心に入るように話す──これは、よき対話の一つのポイントだ。リーダーの大切な資質ともいえよう。
 多くの人の前に立つ場合も、力ばかり入れるのではなく、温かな眼差しと笑顔で語るのだ。
 「ともに仲良く進もう」という心が大切だ。自分は真剣なつもりでも、人から見ると、「こわい顔」にしか見えないこともある(笑い)。
 吉田松陰は、人と接する際の心得を、門下に、こう述べている。
 「一言する時は必ず温然和気婦人好女の如し。是れが気魄の源なり」(山口県教育会編『吉田松陰全集第9巻』岩波書店)
 ふだんは、温かく、和やかに、品のいい女性のように話すがいい。それでこそ、いざという時に、気迫を出せるのだというのである。
 お嬢さんのような笑顔、乙女のようなほほ笑みを忘れずに──峻厳な肖像を思い浮かべて、”あの、おっかない顔をした松陰が”(笑い)と驚く人もいるかもしれない。
 名指導者は、「なんて優しいんだろう」と、皆をほっとさせる。
 ”あの人には、何でも聞ける。文句も言える(笑い)”──そう女性の方々も安心するような、ゆとりをもっことだ。
 とくに、未来を担う青年部のリーダーは、心していただきたい。

●歩きに歩いて
 一、ここで御聖訓を拝したい。
 「一切衆生が法華経を誹謗して(不幸の道を)流転するのを見抜いたゆえに、(それをとどめるために)日蓮が日本国を経行して(=歩いて)南無妙法蓮華経を弘通している」(御書816ページ、通解)
 鎌倉の周辺だけではない。「日本国」である。
 大聖人は「日蓮は、この法門を語ってきたので、他の人とは違って、多くの人に会ってきた」(同1418ページ、通解)とも仰せである。
 大聖人御自身が、歩きに歩き、人と会って、法を弘められた。行動こそ仏法の魂である。
 一方、こうした地道な行動を馬鹿にし、地位や学歴を重んじて虚栄を張る弟子を、大聖人は厳しく戒められた。都にのぼり、貴族主義の軟風に染まった弟子に対して、大聖人は叱咤されている。
 妙法の世界に、学歴や肩書は関係ない。きちっとした信心即生活を貫いていく人が、最も偉大なのであり、最後は勝利者となるのである。

●迫害を打ち破れ「道」を切り開け
 一、大聖人は仰せである。
 「どのような大善をつくり、法華経を千万部も読み、書写し、一念三千の観念観法の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、もうそれだけで成仏はないのである」(同1494ページ、通解)
 大事な一点である。
 私は、民衆を苦しめる敵と戦い、師匠を守り、学会を守り抜いてきた。だれ一人戦わなくとも、私は立ち上がった。
 師匠が中傷されているのに、陰で嘲笑っている人間もいた。師匠を苦しめた悪い人間もいた。いずれも、厳然たる仏罰を受けている。
 昔の学会は、財政的な基盤もなかった。無理解や偏見のなか、周囲から蔑まれ、責められる。その烈風のなかで、私は師匠を守ったのである。
 戸田先生に仕えた私のように、今、学会を守り抜く本物の一人がいるかどうか。それが一切を決する。
 今の時代は恵まれている。同志も増えた。あらゆる面で、基盤も整っている。
 しかし、そうした環境に甘え、戦う心を失ったならば、学会は発展していかない。まるで”貴族仏教”のように、堕落していってしまう。
 迫害を恐れずに、迫害を呼び起こして、叩ききっていく。そのなかで、根本的な広宣流布の道、平和と幸福の道ができあがるのである。
 原野を切り開かなければ、道はできない。私は道をつくってきた。大聖人の仰せ通り、戸田先生の仰せ通り、一分も違えずにやってきた。その勝利が、今日の学会を築いたのである。
 偉大なる仏意仏勅の学会である。学会のことを、表面的に分かったつもりになって、見下したり、軽んずることが、どれほど愚かであるか。傲慢になって威張り、ずるく立ち回る人間に、清浄な世界を汚されてはならない。
 ともあれ、時代は、どんどん進んでいる。若い人の時代だ。未来は、青年に託す以外にない。
 青年が、すべての突破口を開く言論戦の先頭に立っていただきたい。
 青年部、頼むよ!〈「ハイ!」と力強い返事が〉

●一人も残らず
 一、宗教を持った人、なかんずく、最高の法である妙法に生きる人が、どれほど偉大であるか。
 仏が説いた通りに修行するならば、必ず、一生のうちに一人も残らず成仏することができる。  御聖訓には仰せである。
 「秋の稲には.、早(早(わせ))と中(中稲(なかて))と晩(晩稲(おくて))との(実りの時期が異なる)3種の稲があっても、いずれも1年のうちに収穫できる。
 それと同じように、この仏法においても、衆生の機根に上・中・下の違いがあっても、皆、同じく(平等に)、この一生のうちに、諸仏如来と一体不二となる(成仏できる)と思い合わせていくべきである」(御書411ページ、通解)
 また、仏法では、物事を見極める眼を「五眼」に立てわける。肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼である。
 日蓮大聖人は「法華経を持つ者は、この玉眼が自然に具わる」(同1144ページ、通解)と仰せだ。
 大聖人は、こうも明言されている。
 「法華の行者は、男女ともに如来である」(同737ページ、通解)
 広布へ戦う皆様こそ、仏であるとの仰せである。
 そして「法華経を持つ者は必ず皆、仏である。仏を謗れば罪となる」(同1382ページ、通解)と。
 尊き皆様方を馬鹿にしたり、いじめた人間は、すべて、厳たる仏罰を受ける。このことは、私が見てきた体験の上からも、絶対に間違いない。

■ 戸田先生の当時は、海外への拡大など想像もつかなかった。しかし私には、先生と約束した「世界広宣流布」という目標があった。全力で手を打ち続けた。気の休まる日は、一日もなかったといってよい。
 真の仏法者は、「難こそ誉れ」である。激しい迫害を受けながら、ただ、戸田先生の偉業を、戸田先生とともに成し遂げようと戦い続けた。
 妻は、ニッコリと笑って一言、「祈っています」と言うこともあった。毎晩のように丑寅勤行をする日々もあった。病弱であった私を気遣い、「あなたが倒れたら、学会は危うい」との心で、支えてくれたのである。
 私自身のことになって恐縮だが、そうした状況の中で、世界各地に広がる創価の連帯をつくりあげたことを、皆さんには知っておいていただきたいのである(大拍手)。
 あとは、世界のため、世界の広宣流布のために、何としても人材が必要だ。青年である。青年の育成に全力を注ぐ時である。

●師と弟子が同じ心で前進を
 一、折に触れて申し上げてきたが、戸田先生は、軍国主義と戦った牧口先生の大恩に感謝され、「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と語られた。
 「これこそ、本物の師弟である」と、私は感動したのである。
 学会の最高幹部は、
 「一生懸命、師弟の精神を守り、皆さんのために尽くします」との思いでなければならない。
 わが学会は「師弟不二」が根本である。
 師弟が同じ心で──私はこの精神を保ち、戸田先生とともに、きょうまで進んできた。
 ゆえに、怖いものはない。何があろうと、悠然と指揮を執ることができたのである。

●一人の人間として堂々と!
 一、ともあれ、私は平和のため、未来のために世界を舞台に対話の波を起こしてきた。
 一人の人間として、だれとでも堂々と語り合ってきた。
 皆の気づかないところで、一つ一つ手を打ち、世界広宣流布の盤石なる基盤を築いてきたのである。
 世界の指導者や識者と平和のネットワークを結ぶ団体。そして、世界の良識が最大の賞讃を贈る団体。それが創価学会である。
 今の学会の大発展の姿を見たら、戸田先生が、どれほど喜ばれることか。
 私は、すべて先生がおっしゃられた通りにやってきた。
 皆様もまた、私の後に続いていただきたい。幾重にも、友情の絆を広げていただきたいのである(大拍手)。

●自ら打って出よ
 一、仏法の慈悲の精神を社会に広げるために、だれよりも民衆が守られるように、私は一人、ありとあらゆる手を尽くしてきた。
 これが創価の指導者の戦いである。
 指導者が、自ら打って出て、どんどん人と会い、真実を語り、味方をつくる。その勇猛果敢な行動があってこそ、正義の学会は守られ、ここまで進んできたのである。
 来る日も来る日も、どれほど心を砕き、祈り、戦ってきたか。
 戦えば、疲れる。しかし、億劫の辛労を尽くさなければ、襲いかかる大難を勝ち越えることはできない。
 後世のために、あえて語り残しておきたい。
 無責任な人間は、難を勝ち越えても、当たり前と思う。それどころか、忘恩の輩は、真の功労者に嫉妬する。それが人間社会の冷厳なる現実であろう。
 未来に生きる皆さんは、自ら苦労を買って出る、恩を決して忘れない、賢者であっていただきたいのだ。

●深く語り合え!それが土台に
 一、どれだけ動いたか。
 どれだけの人と会ったか。
 どういう人と、何を語り合ったか。
 これが土台になる。これで未来が決まる。決意して動いた「一人」で決まるのだ。
 私がこれだけ幅広く、立体的に、数多くの識者と会い、語り、動いてこられたのは、すべて若き日の、戸田先生の薫陶のおかげである。
 戸田先生にお会いして61年。私は、まっすぐに、弟子の道を歩み抜いてきた。
 戦後の混乱で、先生の事業が挫折した時、私は、一切を捧げて師をお守りした。
 ”広宣流布のために、先生に、もっともっと、長生きしていただきたい!”──私と妻の願いは、ただ、それだけだった。
 師匠に思う存分、広布の指揮を執っていただくために、決然と立ち上がった。常に師と不二の心で戦った。
 これが、ただ一つの弟子の道である。創価の師弟の大道である。あとは何もない。これほど尊い、無上の道はないのである。
我らは永遠に、師とともに戦い、師とともに勝つ!一関西の友の美しき心が薫る
「大勝利 懸崖(けんがい)菊」。京都東総県の友から届けられた。目にも鮮やか
な花の王が、創立の秋を彩(いろど)る(東京。新宿区の信濃平和会館近くで)

●真実の大功徳
 一、きょうは長時間、ありがとう!
 自分のために、一家のために、全同志のために、幸福のために、正義のために、頑張ろう!
 健康で、健康で、どこまでも健康で、わが使命の道を進んでいっていただきたい。
 人生には、さまざまな時がある。
 ある時には、価値的に要領よく。ある時には、誠実に、着実に。また、ある時には、疲れをためないよう休息をとることが大事な場合もある。賢明なる前進をお願いしたい。
 ただ、どんなことがあっても、「広宣流布」と「信心」──これだけは、断じて忘れてはならない。
 約束しよう! 頼むね!〈会場から「ハイ!」と力強い返事が〉
 大変な時に、頑張った分だけ、ぐーっと功徳が増していく。
 功徳は、さまざまな形で表れる。
 その時には罰のように思える試練によって、幸福の道が開けていく場合もある。
 たとえば、手術や注射は痛みを伴う。しかし、それによって健康な体になることができる。 絶体絶命の窮地に思えても、強盛なる信心に立てば、それによって真実の大功徳をつかむことができる。
 甚深の法理を大聖人は教えられている。
 〈「聖人御難事」では、法難と戦う門下に「我等 現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、設えば灸治のごとし当時(=その時)はいた(痛)けれども後の薬なればいた(疼)くていたからず」(御書1190ページ)と仰せである)
 真の功徳は、長い目で見なければ、わからない。途中に何があろうとも、信心しきった者は、最後は必ず勝利する。これだけは間違いない。
 皆さん方のご健康とご健闘、そしてご一家の繁栄を祈ります。
 〈ここで名誉会長の導師で唱題を行う〉
 重ねて、本当にご苦労さまでした。
 朗らかに、朗らかに前進していってください! お願いします!
 ありがとう!(大拍手)