投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 9月15日(木)22時11分40秒   通報
広布後継様
>「熱原の法難と今」について
ジョーカー様のお考えを聞かせていただけませんか?<

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本日の聖教新聞 随筆 永遠なれ創価の大城11より
「顧みれば、あの、『熱原の法難』の折、命に及ぶ迫害に屈せず、民衆仏法の凱歌を轟かせた三烈士たちも入信間もなかったと推察される。『信心は、年数ではない。勇気である。』とは、戸田先生の指導である。」

先生は、最期の戦いにおいて、明確に、「熱原の法難」を意識されているように思います。即ち、権力に屈しない不惜身命の弟子の出現こそが眼目であり、54年の決着でもある。54年は五老僧の如く、無惨な弟子の姿を示してしまった。そして、現代の熱原の三烈士とは、名もなき会員である。「不惜身命」をキーワードとした時、役職や立場など、何の意味もなさない。

民衆仏法の不滅の勝利とは、権力(第六天の魔王)に屈しない、名もなき会員によってもたらされる。執行部や本部職員などでは断じてない。熱原の法難の時に、一体、五老僧(最高幹部)が何の役に立ったというのか。戸田先生の指導にあるように、信心は年数でも立場でもない。ただただ、今の一瞬の勇気である。

正義には余裕がある。反対に魔王は、自分の正体がバレないように、必死に隠ぺい(魔王であることを否定)し、余裕がない。余裕がなければ、話を聴くことができない。故に、権力の魔性に支配されている人間の一つの基準が、「一方的な態度」ということになる。

熱原の法難は、過去の話ではない。内部であろうと、外部であろうと、権力の魔性は、いつでも会員に牙を剥く。奪命し、広宣流布を破壊することを、虎視眈々と狙っている。そして、魔は天界に住む。勝利し、栄えている時に魔王はあらわれる。54年は、池田先生が絶頂期に起きている。創価学会もまた、今が絶頂期である。何が起きてもおかしくない。勝利の裏には、魔王が顔を覗かせる。これが仏法です。

牧口先生も、熱原の三烈士も、権力(魔王)によって、亡き者にされた。それは一見、諸天の加護もなく、正義の敗北のようにも見える。しかし、仏眼で見たら大勝利であり、仏法を永遠たらしめる行為であった。学会も、どんなに栄え、勝利したとしても、肝心な、師弟不二の学会精神が崩れてしまったら、そこには真の勝利はない。創価学会は永遠に、三代会長が中心であり、それだけは絶対に侵してはならない、聖域(サンクチュアリ)である。

創価三代という原理原則の中に、仏意仏勅も息づいている。それを、「時代」とか「時流」という言葉を駆使し、踏み外していく流れには注意しなければならない。狂いに気づけないからこそ狂いである。魔王もまた、自分が魔王であるという自覚がないのだから。