投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月18日(木)10時51分21秒 返信・引用

さて、八月二十四日のことである。
訪問団の一行は、釈尊の初転法輪の地、すなわち初めて法を説いた所であるサールナート(鹿野苑)を訪問した。
そこで、アショーカ王の法勅(法律)を刻んだ石柱を見学した。二千三百年近く前のものである。

石柱には、次のように記されていた。長い間に破損したところもあるが、補って読むと、こうなる。

「だれびとによっても、和合僧団を破らせてはならない。比丘(=僧侶)あるいは比丘尼(=尼)でありながら、和合僧団を破るものは、それがだれであっても、白依(=在家が着る白い服)を着せしめて(=還俗させて)精舎(=僧院・寺院)でない所に住まわせよ」

すなわち、それがだれであろうと、どんな高位の人間であっても、和合僧を破壊する人間は、在家に戻して、僧院から追放せよ――と。

アショーカ王は、これを地方の大官(知事)に命令した。
そして、だれにでもわかるように、石柱に刻んで置いた。
大切なことは、皆にわかるように公明正大に示さねばならない。陰で一部の人間だけが知っているのでは力にならない。

また、この法勅が守られているかどうか、在家の人間が定期的に点検するように決められていた。
出家者による破和合僧が、当時も、よほど心配されていたのであろう。

インドの他の場所にも、同様の意味の法勅が刻まれた石柱がある。
その一つには「私の子孫が統治する限り、日月が輝く限り、和合僧は永続させなければならない」と。

釈尊の滅後数百年の記録において、すでに「破和合僧」を犯す僧侶への戒めが出現していた。
アショーカ王は「そのような者は、もはや僧宝とは認めない。寺から追放せよ」と布告したのである。

鹿野苑は釈尊が五人の修行者に初めて法を説き、いわば仏教の「和合僧団」が歴史上、初めて成立した場所。
その地に破和合僧を戒める法勅が刻まれている意義は大きい。

出家者の監視を任されたのは、在家の人々であった。
仏法を篤く護ったアショーカ王自身も、また在家であった。
ともあれ、真の仏法者はつねに、和合僧を破壊しようとする内外の敵と、戦い続けてきたのである。

【第四十六回本部幹部会、第十九回婦人部幹部会 平成三年九月十七日(大作全集七十八巻)】