投稿者:シドニー 投稿日:2016年 6月 1日(水)04時35分58秒   通報 編集済
■第六十七回本部幹部会
◆「人間革命」の無上道を漸進〈平成5年6月15日、創価国際友好会館〉
池田大作全集83巻
○指導者は、知道者、開道者、説道者たれ

目には見えないが、大空には「鳥の飛ぶ道」がある。大海には「魚(うお)の道」がある――と、御書に仰せである。(「虚空に鳥の飛跡(とぶあと)あり人此(これ)をみず・大海に魚の道あり人これをみず」〈1250ページ〉)
これが仏法の鋭い眼である。
では、人間が人間として生きていく「最高の道」はどこにあるか。ここに根本的な、また全地球的次元での課題がある。
その「無上道」を教えているのが仏法であうr。まだこれ以上のものがあるという「有上道」に対して、「無上道」――これ以上のものはないという最高の道を説いている。
法華経の中で、釈尊は、みずからのことを、「知道者(道を知る者)」「開道者(道を開く者)」「説道者(道を説く者)」であると述べている。これは、薬草喩品(やくそうゆほん)に「我(われ)は是(こ)れ一切知者、一切見者(けんじゃ)、知道者、開道者、説道者なり」(開結281ページ)とある言葉である。
仏意仏勅のわが創価学会は、日蓮大聖人の直系として、正しき「この道」をまっすぐに歩んでいる。
一方、日顕宗は、大聖人の「正道」に背き、完全な「邪道」に歩んでいるのである。(拍手)

中国の天台大師は、この法華経の文を、”身口意(しんくい)の三業”に配して解釈している。
「道を知るとは、意(こころ)を惜しまないことをいう。道を開くとは、身を惜しまないことをいう。道を説くとは、口を惜しまないことをいう」と。
すなわち、「法華文句(もんぐ)」に「知道は意不護(いふご)を謂(い)う。開道は身不護を謂う。説道は口不護を謂う」(大正34巻)とある。
「意を惜しまず」――友のため、社会のため、平和のために、たえず心を砕き、祈りきっていく。
「身を惜しまず」――広布のため、悩める人々のために、どこへでも駆けつけ、動いていく。
そして「口を惜しまず」――語りに語り、「声仏事を為(な)す」(御書708ページ)と仰せどおりの行動を重ねていく。だからこそ、私はスピーチをはじめ、語りに語っている。
迫害を恐れ、反動を恐れて、言うべきことを言わず、ずる賢く立ちまわる。仏法上、それは「悪」である。また、指導者失格である。
「意」も「身」も「口」も惜しまず――ここに仏法者の要件がある。この三つが、そろっているかどうかである。
そして、これが人間としての「最高の道」である。釈尊も、日蓮大聖人も、この道を教えられた。そのとおりに進んでいるのが創価学会であり、わが同志である。(拍手)

(会合に先立って、まず次のように語った。
きょうは、まず演奏から、お願いしましょう。入梅(にゅうばい)で蒸し暑いし〈爆笑〉、何かと忙しくて疲れることが多いから、少し気分転換に〈笑い〉――。本日は、学会の「名曲」の作曲にたずさわった方々の代表に来ていただいている。少しでも、皆さまの慰労になれば幸いである。〈拍手〉
どうすれば、皆さまが、心休まるか。いつもと角度を変え、どうすれば新鮮で、おおらかな気持ちになれるか――それを真剣に考えるのが指導者である。
「会員の心」「民衆の心」に気を配らないのは、本当の指導者ではない。指示し、命令しているだけでは、軍隊と同じである。また、民意をまったく忘れた今の日本の政治のようなものだ。あたたかく、濃(こま)やかな気配り――それが真の指導者である。そして創価学会の世界である。〈拍手〉

今日は第六十七回本部幹部会。本日より高知・室戸会館でも衛星中継が始まった。おめでとう!(拍手)
さらに、この会場には、海外十七ヵ国のSGI(創価学会インタナショナル)メンバーが参加しておられる。心から歓迎申し上げたい。(拍手)
○大勝利で示した「師弟」の精神

昭和三十年(1955年)四月の統一地方選挙は、学会の支援活動の初陣であった。
この時、大田区から都議選に小泉隆氏(故人、当時・理事長)、横浜の鶴見区から市議選に森田悌二氏(故人、当時・鶴見支部長)が立候補した。
知名度もゼロ、肩書もゼロ、経験もゼロ、お金もゼロ(爆笑)――情勢はきわめて厳しかった。立候補したほうも、支援するほうも、皆、まったくの素人である。まさにゼロからの出発であった。
弘教はともかく、選挙はだれもやったことがない。しかも、支援活動は、いつしか信心を忘れ、世法的な策に流されていった。
戸田先生は、事態を深く憂慮された。そして急遽、私を大田と鶴見の両方の最高責任者として一切を託されたのである。
いつも、最初の突破口を開く使命が私にはあった。「大作、そろそろ出るか」――その一言を受けて、広宣流布の勝利の渦を巻き起こした。折伏戦も、私が全世界の火ぶたを切った。
当時、私は二十七歳。すべて戸田先生の「代行」のつもりで戦った。
先生が「やろう」と言われた学会の初陣である。負けさせるわけにはいかない。師匠のため、同市のため、社会のため、民衆のため――そのために、走りに走った。小賢しい策など何もなかった。あるのは、「信心の勢いで」「信心の団結で」――これだけであった。
多摩川を渡って鶴見、こちらへ戻って大田――一つだけでもたいへんであったが、私は両方の全責任を担って戦った。そして、悠々と弘教を進めながら、いずれも最高点の大勝利である。(拍手)
しかし、どんなに戦い、勝っても、戸田先生は私をほめない。私が行けば「勝って当たり前」と安心しきっておられたのかもしれない。
戸田先生の弟子の力が、どれほどすごいか――私は一切に勝ちぬき、満天下に示してきた。それが私の誇りである。(拍手)
ところで、議員は、本来、公僕(こうぼく)である。民衆の幸福のために仕えるのが使命である。決して威張らせてはならない。厳しく、監視せねばならない。
いわんや、学会員の支援で議員になったにもかかわらず、その大恩を忘れ、学会員をバカにしたり、利用したり、裏切る人間は最低である。(大拍手)
○ナポレオンのアルプス越え――「前進!」を合言葉に

この秋、東京富士美術館(八王子市)で「大ナポレオン展」が開かれる予定である(=10月8日、開幕)。準備も着々と進んでおり、世界的にも注目されている(拍手)。できれば国内の各地にも巡回し、多くの人に見ていただきたいと願っている。
「前進!」――この叫びとともに、ナポレオンは波乱の劇を生きた。
私も若き日、この「前進!」を合言葉に、ナポレオンを語りつつ、最低クラスであった文京支部を、学会最高峰の支部に育て上げた。かけがえのない青春の思い出である。
ナポレオンの生涯のなかでも、アルプスの峻峰を越えてローマへと渡った「アルプス越え」はあまりにも有名である。
この「アルプス越え」の雄姿を描いた名画の一つが、東京富士美術館に所蔵されている。(フランス新古典主義絵画の巨匠ダヴィッドの傑作「アルプス越えのナポレオン」。所蔵品は、同構図の絵のなかで、最初の作品とも伝えられている)
また、今秋に完成する東京牧口記念会館の周辺にも、将来、「アルプス越えのナポレオン」の像を置きたいと考えている(=1993年〈平成5年〉11月2日に東京牧口記念会会館に隣接する「ナポレオン広場」で除幕式が行われた)。(拍手)

ナポレオンは、やむことなく戦い続けた。
しかし、リーダーには、途中で兵を休ませたり、危険や無理がある場合には、作戦を中止する勇気も必要であろう。性格的に、また周囲の状況から、ナポレオンには、それができなかったようである。
先日、NHKのテレビで「インパール作戦」の特集を放映していた。この作戦の失敗も、司令官の無思慮に要因があった。(同作戦は、太平洋戦争末期、日本軍がビルマ〈現ミャンマー〉からインド東北部のインパールに対して行った侵攻作戦。約十万の兵士のうち約三万人が死亡し、約二万人が負傷や病気で倒れたという。インパールからアラカン山系を越えるビルマへの道は「白骨街道」と呼ばれた。史上まれに見る”最悪の戦争”といわれる)
中国やシンガポールで、華々しい武勲をあげた司令官は、現場の指揮官や参謀の「食糧が足りない」という道理にかなった意見も聞き入れない。そして無謀な作戦を強行し、おびただしい犠牲者を出してしまった。私の長兄も、そこで亡くなっている。
リーダーはくれぐれも、皆の意見をよく聞くことである。それができないのは増上慢であり、将として根本的に失格である。
○サンマルチンの「アンデス越え」

さて歴史上、ナポレオンの「アルプス越え」に並び称される有名な出来事に、南米解放の英雄サンマルチン(1778年~1850年)の「アンデス越え」(1817年)がある。
サンマルチンといえば、南米では知らない人はいない。
万年雪に覆われた六千メートル級の山々がそびえるアンデス山脈。その高さは、ヒマラヤに次いで世界第二位を誇る。長さは、地球の約四分の一周に相当する世界最長の山脈である。
本年二月、南米訪問の折、空路、アンデスを越えた。五十ヵ国歴訪の節(ふし)を刻むパラグアイからチリへの旅路であった。
その折の感慨を、次のように歌った。

荘厳な 金色(ゆうひ)に包まれ 白雪の アンデス越えたり 我は勝ちたり

十九世紀初め、南アメリカでは三百年にわたるスペインの支配が続いていた。サンマルチンの祖国アルゼンチンは、独立宣言はしたものの、なお南米の広大な地域を治めるスパイン軍に絶えず脅かされていた。
民衆の蜂起も、圧倒的な兵力の前に、ことごとくつぶされた。その陰には、権力者と結託して、民衆の正義の声を抑圧しようとする聖職者の圧迫もあった。
サンマルチンは、みずから志願して前線に立ち、敵との激しい攻防の指揮をとる。彼は、スペイン軍をチリ、ペルー、ボリビアから追放しないかぎり、アルゼンチンの独立を維持することはできないと考えていた。そして一つの結論に達した。――”だれも予想できない所から攻めていくしかない。よし、アンデスを越えよう! 敵をあっと言わせよう”
当時の常識では、それは不可能なことであった。数千メートルもの山々。道があるところでも、人間がようやく通れるほどの細い道でしかない。危険な場所も多い。大軍を率いてそこを越えようとする人など、だれもいなかった。
しかし彼は逡巡しなかった。”今はためらっている時ではない。行動する時である”と。
彼は、青年らしく立ち上がった。アンデスのふもとの地域の州知事となり、たった一人で準備を始める。
優秀な人材をどう集めるか。食糧はどうするのか。どの道を通るか。馬や武器の確保をどうするか――問題は多かった。
「越えなければならない巨大や山々のことを考えると、夜も眠れなかった」と彼は言う。
彼は、一つ一つの問題に真剣に取り組み、身を粉にして働いた。兵士の食べ物や、サーベルの刃の具合にまで細かく気を配ったという。
その陰には、夫人の強い支えがあった。夫人は、大切な宝石をすすんで寄付したり、市民の協力を求める署名簿に最初に署名するなど、夫とともに先頭になって戦った。
サンマルチンは、いかなる人であれ、一緒に戦おうという人は、皆”同志”として敬った。先住民であれ、外国人であれ、一人として”よそ者”扱いせず、あらゆる人を結集した。奴隷も解放し、仲間とした。皆を味方にしようとしたのである。
また、彼は「対話」を大切にした。一人一人に情熱をこめて応援を訴えた。
“ぜひ、あなたの力を貸してほしい。ともに新しい時代をつくろう!”――この気迫が、人々の心をつかんでいった。やがて壮年も青年も、男性も女性も、進んで準備に協力するようになる。そしてわずか二年間で、五千人を超す一級の部隊ができあがったのである。
「さあ、出発しよう!」――サンマルチンの勇ましい声が、夏の青空にとどろいた。いよいよアンデスをめざし、さっそうたる出陣である。
細心の注意をはらい、部隊は四つに分かれた。しかし、バラバラになることなく、彼を中心に、つねに連携を取りあい、団結して進んだ。
万年雪を見上げつつ、岩をつたい、道なき道を行く強行軍。空気が薄く、高山病で倒れる者もいた。サンマルチンはのちに、「アンデスの困難は、越えた者のみがわかる」と語っている。
しかし皆、挑戦を続けた。戦いに参加したことに誇りをもっていた。
彼はこうも語っている。
「皆、あまりにも大きな困難を克服した自信にあふれ、途中で引き返すことなど思いもしなかった。兵士たちには、確信と勇気がみなぎっていた」と。
サンマルチンは、率先のリーダーであった。つねにみずから先頭に立ち、苦楽をともにして、皆を励ます心遣いを忘れなかった。
山中で、兵士たちは、疲労と零下六度の寒さに襲われた。その時、彼は、眼前にそびえる南米最高峰のアコンカグアの山(標高6960メートル、富士山の約二倍)を見つめながら、皆に勇気をおくろうと、音楽隊に「アルゼンチン国家」を演奏するよう促した。
澄みきった空とアンデスの山々に響きわたる荘厳な音色。それを耳にして奮い立つ兵士たち――一幅の名画のごとき情景である。私はこの二月、アルゼンチン総会に出席した折、厳粛に合唱されたアルゼンチン国家を思い起こす。

出発の日から約二週間。苦難また苦難を乗り越え、「アンデス越え」は見事に成し遂げられた。
不可能が可能となった。敵はあっと驚いた。大成功、大勝利であった。「この時に、南米の歴史が変わった」と言われている。それからの彼は、怒涛の前進とともに、勝利を積み重ねていく。またたく間にチリを解放し、ペルーの独立を勝ち取っていったのである。
のちにある詩人は、この英雄をたたえて歌っている。
「アンデスに一つの岩のあるかぎり、荘厳な山頂にコンドルが飛んでいるかぎり、あなたの名は不滅であり、戦地でのあなたの叫びは消えることがない」
私たちも、ともどもに”広宣のアンデス”を越えてまいりたい。「行動の人」の栄光は、永遠である。
○先頭を進め”栄光の劇(ドラマ)”へ

ナポレオンは、語った。
「それにしても、私の生涯は、何という小説(ロマン)であろう!」(オクターヴ・オブリ編「ナポレオン言行録」大塚幸男訳、岩波文庫)
彼は生涯で、六十回におよび戦闘を行っている。すべて”生きるか死ぬか”の命がけの戦いであった。
ある時は、エジプトのピラミッドを仰ぎ、ある時は、白雪のアルプスを越えながら――ナポレオンは戦った。
皆さまも、自分自身の「ロマン」をつづり、自分自身の「歴史」をつくることである。
だれに言われようが言われまいが、自分は自分らしく、決然たる「舞」を舞い、「曲」を奏で、「劇」を演じゆく人生であっていただきたい。
どうせ戦うなら、身も心も軽やかに戦うことである。すべてを自分の喜びとし、生きがいとしていける人が賢者であり、幸福者である。
ナポレオンは、戦いにあって、つねに先頭に立った。
「つねに先頭に」――これが指導者の鉄則である。
次元は異なるが、大聖人も、法戦の先頭に立って戦われた。ゆえに門下の私も、つねに先頭に立つ。
皆に戦わせ、自分は後ろに隠れて、楽をしようというような、卑怯なリーダーであってはならない。

ナポレオンは”最悪の策とは、ほとんどつねに、最も臆病な策である”との信念をもっていた。臆病は敵である。彼は、だれよりも勇敢に戦った。
戦いの勝利を決定づけるものは何か。ナポレオンは、体験のうえから次の言葉を残している。
「いたずらに多くの人間がいたからといって何にもならない。一人の人間こそすべてである」(同前)
牧口先生も、「羊千匹より獅子一匹」と言われた。
私も、「ただ一人で」の決心を貫ききってきた。大聖人の直系として、また戸田先生の後を継ぎ、私は戦う。だれがついてこようと、こまいと、また、だれが反逆し、攻撃しようと、私は私の信念で進む。周囲がどう変わろうと、私は私である。この一念ゆえに私は強い。
人数の多さが、勝敗を決めるとは限らない。むしろ、人数に頼る油断と無責任は、大きな敗因となろう。
先に述べたインパール作戦も、そうである。十万もの大軍にもかかわらず、無謀な作戦で、数万の犠牲者を出して敗北した。
要するに、指導者が「責任」を自覚するか否か、「本気」になって、みずから勝利への闘争をし、みずから道を開くか否か――この一点である。本物の指導者か、格好だけの偽物か。その違いは天地雲泥である。
○勝負は「一人」で決まる、「小事」で決まる

ナポレオンは戦場にあって、つねにその「真剣の一人」であった。”われ、ここにあり””われこそが頼み”との気概であった。
イタリアにおける重要な先頭(1800年、マレンゴの戦い)において、味方の軍は敗色濃く、総崩れとなる。敗北は決定的に見えた。だが敗走する味方を眼前にしつつも、ナポレオンは微動だにしなかった。彼は確信していた。「われ、勝てり!」と。
観念論ではない。彼は両軍の状況を冷静に見つめ、勝利の見通しを得ていた。この「将の確信」が、ふたたび全軍の士気に火をつけた。
この英雄の姿は、第二次世界大戦中の、イギリスのチャーチル首相の姿を思い起させる。
ロンドンが、ナチス・ドイツの猛烈な爆撃をうけているさなか、チャーチル首相は、悠然とボールを放りながら国民の前に姿を見せたというのである。
「皆、心配するな。大丈夫、私がいる!」。堂々たる名宰相の姿である。
「将の一念」――これがどれほど大事であるか。苦しみはすべてわが身に引き受け、皆には希望と張り合いをもたせて、皆の身も心も軽くしてあげる。その「心」と「振る舞い」が、皆の心を鼓舞し、勝利をもたらす力となる。
大将が、何かあるとすぐ動揺し、一喜一憂して、あわてふためくようであっては、そのもとで戦う人間がかわいそうである。
また、いつも「危ない、危ない」と危機感ばかり煽っていても、「何だ、また言っている」(笑い)、「これは口先だけの策だな」(爆笑)と、見破られてしまう。ありのままの大誠実の姿ほど、人の心を動かすものはない。(拍手)

一方、ナポレオンの敵軍は、勝利したと思い込んで、将軍がさっさと後方の陣地に引き揚げてしまった。油断である。
「敵は将軍がいない。攻めれば勝てる!」。ナポレオン軍は勢いを得て反撃に転じ、ついに逆転勝利を収めたのである。
将の恥ずべき無責任さ――。じつはインパール作戦でも、同様の構図があった。
日本軍の司令官は、十万の兵士を送り出し、自分は後方に残った。飢えと病気が蔓延する前線に対して、武器や食糧の供給など、ろくに考えようとはしなかったという。(戦火のおよばない後方の町で、司令官は「何日までに、あの場所を落とせ」等、無理な命令を出すばかりであった。当初は、”おかかえの芸者”まで連れ込んで、酒色にふけっていたという)
あまりの理不尽さに、前線の師団長が、司令官の命令に背き、退却するほどであった。
結局、惨憺(さんたん)たる大敗であった。まことに無責任で愚かな指導者についた人は不幸である。(今の宗門も、日顕は内外の批判から逃げ回る一方、末寺の困窮をよそに、放蕩の限りを尽くしている)

ナポレオンは、ある時、こう語った。
「華々しい勝利から没落への距離はただ一歩にすぎない。私は、最も重大な情況において、どんな大きな事件もほんのちょっとしたことで常に決まるのを見て来た」(前掲「ナポレオン言行録」)と。
これは、私が戸田先生から厳しく教わったことである。先生も、まったく同じ指摘をされていた。
私が大阪で戦っていた時のことである。先生は、ある問題について「ほんのちょっとのことで、人間は人生を狂わせるぞ」「ちょっとのところで戦(いくさ)は負けるぞ」と言われていた。じつに些細な兆候を鋭くとらえての指導であった。本当に偉大な先生であられた。
「油断大敵」。これは、一国の歴史にも、一人の人生にもあてはまる真実であろう。
みずからの歴史を晴ればれと”勝利”の二字で飾るには、”手抜き”は許されない。小さな油断から、人生に悔恨(かいこん)を残してはならない。
どうか、自分自身のために、悔いない「今日」であり、「明日」であっていただきたい。(拍手)
○ユゴー「今世紀は”人間革命”に着手を」

六月五日、フランスのヴィクトル・ユゴー文学記念館で「『九十三年』――ユゴーの革新的な息吹」展が開幕した。同展では、貴重な直筆原稿などが多数、展示されている。
ユゴーについては、いつかさらに語りたいと思っている。
ご存知のとおり、ユゴーの革命小説『九十三年』は、1793年を主舞台にしている。今年は、それからちょうど二百年にあたる。私も若き日に、戸田先生のもとで、同書を繰り返し読んだ。

先日、フランスのメンバーの方から、「ユゴーも『人間革命』の大切さを訴えています」とのお手紙が寄せられた。「ぜひ日本の同志に紹介してください」との要望も添えられていたので、そのままお伝えしたい。
それは1876年6月、友人であった著名な女性作家ジョルジュ・サンドの死を悼(いた)んで、ユゴーがしたためた一文である。
ユゴーはつづっている。
「フランス革命が完了し、人間革命に着手すべき今世紀」と――。
フランス革命の「自由」と「平等」と「友愛」の理念を手にした人類は、今こそ「人間革命」に取り組むべきである、と語っているのである。
今、学会は、この人類待望の大道を、先駆けて進んでいる。(拍手)
創価大学の記念講堂には、このユゴーの像と、トルストイの像がある。
ユゴー研究の権威であられる辻(つじ)昶(とおる)氏(東京教育大学名誉教授)は、ユゴーの思想はトルストイに継承されているとされ、両者の像を並べて建てたことに、創大のめざしている精神がうかがえると高く評価してくださっている。(拍手)

現在、私と「科学と宗教」の対談を進めている、世界的な物理学者のログノフ博士(前モスクワ大学総長)が来日されている。私はあす(六月十六日)、会談する予定である。(=対談集『科学と宗教』は、上、下二巻共に1994年5月3日、潮出版から発刊)
博士も、語っておられる。
「(人類の新たな文明を展望するうえで)私はきたるべき『人間革命』についての池田博士の見地に全面的に賛成します。この革命がなければ、人類は未来がもてない可能性もあります」と。(拍手)
“学会は正しい”との証明と、励ましのお言葉と受けとめたい。日々、偉大なる「人間革命」の実践に取り組んでおられる皆さまの姿を、世界の英知は、熱いまなざしで見つめている。(拍手)
学会があまりにも時代を先取りしているゆえに、日本の社会は、その偉大さを、なかなか理解できないのである。しかし、心ある世界の人々が、そして二百年後の人類が、大喝采をもって、皆さまを讃嘆することは間違いない。(拍手)
○現実の世で広布に戦う人こそ尊貴な女性

大聖人の門下に、妙法尼御前と呼ばれる婦人がいた。この婦人は、夫に先立たれた。そのうえ親類からも離れており、娘もあてにできない。頼るべき身寄りのない境遇であった。
しかも、信仰のことで周囲から、あれこれといつも悪口を言われ、いじめられていた。
しかし、彼女は、ただ大聖人の仰せのままに、一人、毅然と広布のために動いた。冒頭に述べた「無上道」を、最高に正しい道を歩み続けたのである。
大聖人は、世間的には最も弱い立場で、人々から軽蔑されていたこと無名の庶民の女性こそ、じつは最も尊貴な仏となると、最大に称賛しておられる。
他のだれが言うのでもない。御本仏の御説法である。三世を知る大聖人の御言葉である。
私たちは大聖人を信奉する。大聖人の門下である。ゆえに、大聖人の教えのとおりに信仰するのが正しいのではないだろうか。(拍手)
日顕は、それはいけない、自分の言うとおりにせよと言うのだが、おかしいのではないだろうか(拍手)。彼の大聖人の門下のはずなのだが、それとも違うのだろうか。(爆笑)

大聖人は、妙法尼御前に仰せである。
「今末代(まつだい)悪世の女人(にょにん)と生(うま)れさせ給(たま)いてかかるものをぼえぬ島のえびす(夷)にのられ打たれ責められしの(忍)び法華経を弘めさせ給う彼の比丘尼には雲泥勝(すぐ)れてありと仏は霊山にて御覧あるらん、彼の比丘尼の御名(みな)を一切(いっさい)衆生(しゅじょう)喜見仏(きけんぶつ)と申すは別(べち)の事にあらず、今の妙法尼御前の名にて候べし」(御書1420ページ)――今、(あなたは)末代悪世の女人とお生まれになり、このように、ものごとの道理をわきまえない島(日本)の野蛮な人々にののしられ、打たれ、責められながら、それを耐え忍んで法華経を弘めておられます。かの比丘尼(ここでは釈尊の養母である魔訶波闍波提(まかはじゃはだい)比丘尼)と比べて、あなたのほうが天地雲泥も勝れていると、仏は霊鷲山(りょうじゅせん)でご覧になられていることでしょう。かの比丘尼に授けられた名前を「一切衆生喜見仏(一切の衆生が喜んで見る仏)というのは、別のことではありません。今の妙法尼御前の名前であるのです――と。
ちなみに、「妙法尼」は、佐渡に在住していたとの説もあり、その場合、「島」は佐渡をさすとの解釈もある。
ここで引かれている釈尊の養母とは、釈尊の叔母(釈尊の母の妹)にあたり、実際に釈尊を育てた王妃である。釈尊の生みの母は釈尊を産んで七日後に亡くなっている。しかも、この育ての母は、後に女性として初めて出家し、釈尊教団のなかで女性の中心的な存在として活躍している。
これほどまでに釈尊にゆかりが深く、身分も立場も高い女性にもまして、大聖人門下の無名の女性は偉大であると、大聖人は断言なされている。
それは、なぜか――。釈尊の養母らは、たいへんな娑婆世界を避けて、楽な他方の国土で法を弘めることを願った。それに対し妙法尼御前は、この娑婆世界の真っただ中で、名利もかなぐり捨て、命をなげうって戦っている。
娑婆とは「堪忍(かんにん)」の意で、わずらわしい苦悩や嫉妬などを、耐え忍んでいかなければならない場所である。
とりわけ大聖人は、日本の国は、一闡提(いっせんだい)の生み広げた国であると仰せである。
(「一闡提人と申(もうし)てほうぼうの者計(ばか)り地獄守に留(とどめ)られたりき彼等がう(生)み(生)ひろ(広)げて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」〈御書959ページ〉
その地で難を受けながら、忍耐強く、法のため、友のため、社会のために行動している。その姿を、大聖人は、このうえなく称えておられるのである。
○「王宮」の学会で幸福の「王者」と輝け

人里離れた山の奥や、森の中で安閑と過ごすのではない。荒れ狂う現実社会を舞台に、苦悩している人のもとへ駆けつけ、対話し、救っていく――その人こそ、いちばん尊い人間であり、本物の信仰者ではないだろうか。(賛同の挙手)
大聖人は、三世の生命観のうえから、すべてを見通して仰せである。懸命に広布に進んでいる、その人こそ、いちばん崇高な存在なのである。
すなわち学会の婦人部、女子部、そして全同志こそ、一切衆生が喜んで見るような仏となる。無量無辺の諸天諸仏が皆さまを讃嘆しておられる。(拍手)
幸福は外見ではない。華やかな姿で決まるのではない。人気や虚栄は幻であり、泡(あぶく)のようなものである。そうしたものに粉動されて、自分を見失えば、最後は哀れな人生となってしまう。とくに、女子部は聡明であっていただきたい。真実と虚偽、本物と偽物を見極めるjための信仰である。
妙法のため、広宣流布のために流した労苦の汗こそ、いちばん尊い。その人こそ、生々世々、あらゆる人々から喜び慕われ、敬愛されゆく大境涯を開いていける。また、まこと信心に徹しゆく人には、教養も、品格も、福徳も、すべてが最高に備わってくる。
どうか仏意仏勅の学会のなかで、意気軒高(いきけんこう)に人生を生きぬいていただきたい。
学会の会館はすべてが”王宮(おうぐう)”である。御本尊を中心とした輝く”宮殿”である。心卑しき人間はいられない世界である。
私どもは、この王宮で、すがすがしい心の連帯を築きながら、人々を救っていく”キングの道”を、”王者の道”を歩んでまいりたい。(拍手)
きょうは本当にご苦労さま。参加できなかった皆さまにもよろしくお伝えしていただきたい。

リーダーは、会合のさい、新鮮味のある、味わい豊かな話をお願いしたい。
食事でも、毎日、毎日、「ごはんと味噌汁だけ」では飽きてしまう(爆笑)。たまには、違ったものが食べたくなる。話も同じである。決まりきった話や、伝達と報告だけでは、あまりにも味気ない。心に染み入るような話で、皆の心をさわやかにしてあげていただきたい。
人生を心から楽しんでいくための信心である。どうせ生きるならば、楽しく生きたほうが得である。どうせ戦うならば、楽しく、勢いよく戦ったほうが得である。
悠々と、胸を張って、どこまでも朗らかな前進をお願いします!