2016年5月18日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)16時45分59秒 通報 さらに法華経の作成者が仏(地涌)を菩薩として登場させた意図(真意)は、 外には菩薩の姿をとる仏――「菩薩仏」であるということです。 つまり、それまでの仏といえば釈尊を含めて色相荘厳の姿で登場し、 仏果を成就した「完成者・到達者」として描かれていました。 しかし、菩薩仏は完成者ではなく、未完成の姿をとっています。 それでいて妙法とともに生きる仏の境涯に住しています。 言い換えれば、未完成を含んだ完成、完成を含んだ未完成というこれまでにない新しい種類の仏です。 これは今まで語られてきた「仏」の概念の大変革をもたらします。 日蓮仏法で表現すれば、完成者、到達者の仏は仏果を成就した「本果の仏」。 それに対して地涌の菩薩として登場した菩薩仏は「本因の仏」といえるのではないかと思います。 考えてみれば、 凡夫の成仏といっても現実の人間が「完成者・到達者」として仏になることはあり得ません。 生きている限り、生命は揺れ動くものであり、完成してこれ以上やることがないということはあり得えない。 大聖人もその胸中には根源の法の悟りがあり、その意味では到達者といえますが、 その生命の内部には悟りを脅かそうとする働きとの闘争は絶えず続けられていました。 たとえば 「日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王、我が身に入らんとするに兼ての用心深ければ身によせつけず」 (一三四〇頁)とある通り、常に魔と戦い続けています。 これは大聖人自身も不断の魔との闘争を止めたならば、 仏の境涯を維持することができなかったのではないかとも解釈できます。 つまり、大聖人も完成の中に未完成を含んだ存在であり、地涌の菩薩とはそういう立場なのだと思います。 Tweet