投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月14日(日)11時43分40秒 返信・引用

さて仏法では、人間の生命を「法器」といって、「器」に譬える場合がある。
(法器〈法の器〉とは、仏道修行に耐えうる存在のこと。

また「秋元御書」には「器に我等が身心を表す、我等が心は器の如し口も器・耳も器なり」〈御書一〇七一頁〉と仰せになり、器の四つの欠点として、
①「覆」〈伏せる、蓋をする〉
②「漏」〈水がもる〉
③「?」〈器が汚れている〉
④「雑」〈入れたものに、汚いものが混じる〉を挙げられている)

一般的にも、組織もまた一つの器といわれる。
上が下を抑えつける組織は、器が伏せられ、下を向いているようなものである。
あるいは、蓋で覆っている状態に似ている。
新しいものは、何も入らない。
一見、まとまりがあるように見えて、中は暗く、発展性も、もはやない。

上に立つ人がいばったり、ことなかれ主義で皆の意見を抑えつけたり、要領よく現状を維持させることだけを考えたり――それは器が《転倒》しているような姿である。

上の人が、むしろ皆を下から支える――それが「器」としての組織の本来のかたちである。
そうすれば、器は広々と明るい。
さまざまなものを載せられる。
さまざまな人々をつつむことができる。
ゆえに発展もしていく。正法の和合僧が拡大していく。

器の下にもぐりこみ、人々を押し上げていくリーダー。
御本尊のほうへ、広宣流布のほうへ、太陽の方向へ、成長の方向へと支え、励まし、向かわせていく。それができるのが、真のリーダーである。

そうすれば人材も出てくる。
皆、はつらつと力を出していく。
自分も守られる。
おたがいにとって価値がある。

命令で人を使い、権威で人を従わせるのが指導者なのではない。
よけいな、抑圧の《蓋》になって断じてはならない。
器を転倒させてもならない。
ともあれ、中身のために器がある。
会員のために学会の組織はある。仏子のために、仏法のすべての指導者はいる。

坂本龍馬をはじめ、幕府を倒した志士たちも《時代》を見失い、《民衆》を抑えつける「旧き権威・権力」に見切りをつけた。

本日は、くわしいことは略させていただくが、高知などでは、その「自由」への脈動が自由民権運動となり、さらには民衆主体の先駆的な憲法草案(植木枝盛による)となって生き続けた。

この「民衆の力」――その無限のパワーを最大限に発揮させるのが、本来、日蓮大聖人の仏法なのである。

【第二回大田記念文化音楽祭 平成三年八月三十一日(大作全集七十八巻)】