投稿者:ロマン 投稿日:2016年 5月 8日(日)12時40分49秒   通報 編集済
少し長いですが、昭和49年に対談形式で編まれた「私の仏教観」をひもといてみます。
有名な説話の部分です。

釈尊亡き後、アーナンダ(阿難。釈尊十大弟子で多聞第一)が旧知のバラモンと会った時に次のように訊かれた。
「尊者アーナンダよ、世尊が亡くなられてから、あとにはだれぞ、世尊に等しいような立派な方がおられるか」
それに対してアーナンダは、このように答えた。
「友よ、そんな立派な方がいる道理はないではないか。かの世尊は、自らこの道を悟り、自らこの道を実践した方であった。その弟子たるわれらは、世尊の教法と垂範に、後からついていくだけである。すなわち、法の所依である」(『南伝大蔵経』第十一巻、参照)

池田 つまり「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)ということだね。先のマハーカーシャパ(摩訶迦葉。釈尊十大弟子で頭陀第一)の話※が、教団の団結と維持のために仏典結集を必要としたものとすれば、このアーナンダの場合は、信仰の依拠としての経典を必要としたものといえるでしょう。(※第一回の仏典結集のこと。ロマン編注)
『大般涅槃経」によれば、釈尊は死の直前に、集まっていた弟子たちに呼びかけて言った。
「おまえたちは、私が亡くなっても、指導者がなくなったと思ってはならぬ。私の説いた教えと掟とが、おまえたちの指導者である。おまえたちが今、もし疑いを持っているなら、たずねるがよい。後になって、私が生存中に聴いておけばよかったと、後悔するようなことがあってはならない」と。そして続けて「もろもろの事象は過ぎ去るものである。努力して修行を完成させなさい」(『南伝大蔵経』第七巻、参照)という、この有名な最後の言葉を遺して、釈尊は涅槃に入るわけだ。
いわゆる「依法不依人」の原理は、ここから出ているわけだが、おそらく釈尊は、自身の死後にさまざまな人師があわられ、勝手な己義をまじえることを警戒したにちがいない。

ー中略ー

【ジャイナ教が教祖の死後、依るべき典拠がなかったために分裂した歴史に触れ、釈尊はシャーリプトラ(舎利弗)に命じて、仏教教団の教義を集成するようにさせていた、ともいわれていることを受け】

池田 なるほど。おそらく釈尊は、生前から「令法久住」(法を久しく住せしめん)との一念を強く持っていたにちがいない。卓越した指導者であれば、絶えず自身の死後の教団のあり方に、思いをこらしているからです。その証拠に、釈尊滅後直ちに弟子たちが集まって経典を結集し、その後も千数百年にもわたって、仏教教団が経典の結集と継承に全力を傾注してきたのは、生前の釈尊の「令法久住」の熱誠が反映したものと考えられる。

「私の仏教観」P17-P19より

つまり、創価学会の永遠規範とすべき(永遠の指導者ですから)池田先生の指導は、漏れなく後世に残すことが大事なことなのです。ですが、絶版やら何年以降は出版しないとか、全くもって意味が分かりません。
だからこそ、宿坊の掲示板に投稿されるように、気づいた人々が集まって残していくことがとても大事であり、後世のために必要だと強く訴えたいのです。