投稿者:螺髪 投稿日:2016年 5月 1日(日)06時31分40秒   通報
一個の人間が「生命」であるように、一個の「組織」もまた「生命」と言っていいはずです。
生命体である以上、そこには必ず根源の法である「妙法蓮華経」が存在します。それが法華経の説くところです。と同時に、その妙法蓮華経の変化相の十界三千も存在します。いわゆる、十界本有が生命の実相です。

妙法蓮華経は、一面から述べれば「妙法」という「生死」と、「蓮華」という「因果」が貫く法です。その教えの「経」です。
生死と因果の法だから、そこには必ずその個性ともいうべき、性分の「実相」があり、実相に即して現象の「諸法」もあります。
「諸法実相」は、諸法に即して実相があり、実相に即して諸法があるという深遠の法です。諸法だけというのもありませんし、実相だけというのもありません。諸法と実相の交流は双方向です。一体です。

これを戦後、大発展を遂げた創価学会の組織の歴史に当てはめて見るとどうなるか。
1950年代、60年代は、軍隊基調でした。男性主導、軍人上がりが多かった時代でしたから、致し方ないところがありました。二世も、まだ産まれたばかりか、幼少でしたから、まだ組織の運営者とは成りたり得てなかった。
中には、中学生分隊長なんてのもありましたがね(笑い)。

組織の理想形は、ほんの少し前まで「軍隊」であると語られたものです。意思伝達は速いし、統率力もいまのどの組織よりも固い。よくも悪くも、この時代を懐かしむのは、「生き死に」を共にした「戦友」の感覚とほぼ同次元の心情がありはしないでしょうか。

会員も50年代、60年代は、まだまだ食うことにも事欠き、「病人と貧乏人の集まり」とも揶揄された、いわば社会底辺の人たちが数多く占めた。革靴を履いていたり、いまじゃ高校生でもスマホが当たり前の時代ですが、家庭に電話があるだけで「人材」と持て囃されたりもした時代です。いまとなっては考えられないような有様です。
大雑把に言えば、こういうことでしょうか。

この時代に、次代を見据えられ、高等部や中等部、少年部を結成されたのも、池田先生ご自身の手によるものでした。夏期講習会で、先生の講義を受けた方も数多いのではないでしょうか。すでに戸田先生の時代からあった学生部に加え、将来への布陣でした。
いまや、会員には、社長もいる、上場企業の役員もいる、弁護士も、医師も、大学教授も、教職員も、校長もいる。実に分厚い人材層の組織に大転換してまいりました。もちろん、純朴で純粋な方も、会員には数多くみえます。多種多様の人材列が整ったのです。かつてとは会員の構成が違うのです。

豚、牛を追いたてるような組織運営では成り立たなくなってきているのです。まるでどこかの企業、団体のように、業務命令なんてやり方は通用しなくなってきているのです。会員は、職員やお囲いの議員ではないのですから。
紙切れ一枚の活動方針や、決まった日に報告だけは要求するといった活動形態では、参画意識も、活動に挑む情熱もわきあがってきません。人間としての生の交流が、そこにはないのです。壮年の未活動の掘り起こしができないのも、非活動家が増えるのもあたり前の話です。対話なき活動も、心なき組織運営も、その実相即諸法の現れとしか言いようがありません。

衆生に慈悲心があるのを見越して、その衆生の慈悲心を求めるは「慈悲魔」と言います。幹部が、自身は何も貢献してないで、会員にだけ貢献を求めるのは、それと同じです。組織生命体にも、十界があるのなら、畜生界や修羅界のような世界では、もう人はついて来ない。二乗もいる。菩薩もいる。十界本有、十界同時の成仏が本当の組織の在り方です。もう、ニワトリを小屋に追い込むような組織運営では成り立たないことを知るべきです。
何ですか。活動停止、解任、除名って――。独裁国家と同じではないですか。口で「桜梅桃梨」と言っておきながら、行動で紋切り自分の「型」にはめようとするのは「偽善者」以外の何物でもありません。