投稿者:生涯広布(正義の師子同盟)メール 投稿日:2016年 5月 2日(月)08時25分36秒   通報 編集済
続編・・

転載開始・・

そうした中、実践者として”民衆の中に入り”民衆の苦を救う”という 釈尊の真意から、遠くかけ離れたものになっていった。その後、

こうした傾向への反省から、大乗仏教が興隆した。しかし、大勢 として、インド仏教の民衆遊離の傾向は変わらなかった。

ともあれ、民衆を忘れ、現実を離れて、いたずらに空理空論をもて
遊ぶ姿の中には、すでに仏法の精神は完全に失われている。

最も重大なことは一人の人間を心から蘇生させていくことだ。
また、正法を”広宣流布”することである。さらに正しく信・行
学の修行を貫き通していくことである。そこに一切がある。

中略

庶民にわからぬ言葉での学問議論ーこのこと自体、仏教が 民衆の中で生きた躍動を失った証とも言われる。

この点、”当時の僧侶は民衆から離れて、奥深い大寺院の中で
一人瞑想にふけるか、あるいは煩瑣(はんさ)な学問の遊戯
に耽っていた。彼らは、民衆とともに苦しみ民衆を救おうと
する精神が乏しかった。彼らは、伝道精神が欠けていたので
ある。(インド古代史・下)とする中村博士の正鵠(せいこく)
を射た指摘もある。私も、そう思っている一人である。

御本仏日蓮大聖人も、カナの法が相手にわかりやすい場合には ひらがなでお手紙を書かれた。ここにこそ仏教本来の精神があり、

指導、弘教の方軌がある。しかし、五老僧は、かな書きでの御書
を軽侮し、勿体無くも焼いたり、鋤き返したりした。全ては自分

たちの虚栄から来た錯誤である。この歴史の事実を忘れてはならないい。
インド仏教の民衆遊離の他の面としては、その支持層が都市住民に

限られていたという点がある。都市には王族がおり。富裕な商人がいた。
仏教教団は、自然彼らの寄進にのみ依存し、その結果、農民たちの間に
深く根をはることができなかった。

もう一つの、重大な変化があった。それは、”僧院中心主義”(本部職員中心主義)
による僧(本部・学会職員)の堕落である。すなわち、僧院の(会館の)増加に
伴い、それまでここの修行者の乞食行に対して行われていた供養が、僧院自体に
対して行われるようになった。(・・・・)

鉢を持って一軒一軒の家を訪ね、食をこうて歩く托鉢の修行は、一定の厳しい
行儀に基づいていた。しかし、僧院(職員)の比重が増すにつれて、日々の厳しい

修行(折伏)は、次第に忘れ去られるに至った(・・・・)修行が
なくても、権力者や富豪は次々と財物を寄進する(財務、財務)しかも

しだいに供養は巨額となり、(三桁、四桁・白百合財務)僧院には莫大な
財産が蓄えられた(・・・・)。

やがて、土地さえ寄進されるようになり、僧院は広大な土地から上がる小作料で
維持、運営されるなど”世俗領主”と肩を並べるほどであったという。(・・・・)

中略

インド歴史家ロミラ・ターバルは次のように述べている。
”今や彼らは、僧院の広い食堂で毎度の食事をとっていた。僧院は、街に隣接してか、
さもなければ都会の喧騒から遥か離れた美しい静かな丘陵などに建てられた。

人里離れた僧院は、僧たちが快適に暮らせるように十二分の寄進を受けていたおじいちゃん
こうして仏教教団は次第に一般民衆から遊離し、孤立化する傾向を持つようになった。

そして、その結果、宗教的な力は大きく失われた。ブッダが生きていたならば、おそらく
このような発展を受け入れはしなかったであろう”

サンガ(仏教教団)を形成する比丘たちは、本来、求道の修行者であり、同時に弘教者
であり、民衆の導師のはずであった。しかし、仏教が僧院中心主義 となり、僧院が僧たちの
占有物と化した結果、峻厳な修行も、慈愛の弘教も、民衆の 幸福に尽くしていく指導者としての使命を見失われていった・・・

このようにインド仏教の”民衆からの遊離”はあらゆる面で顕著であった。
強い”信仰”に基づく仏教本来の生命力を失い、観念化していった。こうなっては
弱体化するほかないのは、個人においても、組織においても同様である。

・・転載終わり・・・・・・