投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 9月 7日(水)12時42分14秒   通報
大聖人の著した〝諫言の書〟である立正安国論には
〝神天上の法門〟が説かれていますが、災難や戦争が起こる根本原因の結論として

「世の中の人々は皆、正法に背き、ことごとく悪に帰していることにある」
(御書一七頁)と述べています。

しかしこの著作のなかで大聖人は〝正法〟なるものを
法華経(妙法)とは言わず「実乗の一善」としか表現しませんでした。

ここでいう〝実乗の一善〟とは、あえていえば
「民衆に活力を与える法(思想哲学)」と捉えることも可能です。

つまり、世の中の人々は

「民衆に活力を与える法に背き、ことごとく民衆の活力をそぐ法に帰している」

という意味です。

私たちに置き換えて言えば、学会幹部は

「会員に活力を与える池田先生の指導に背き、ことごとく組織の論理に帰している」

ということになるでしょう。

〝神天上の法門〟を理解するうえで、

民衆に活力を与える法が「正」、民衆の活力をそぐ法を「悪」

という発想に立って恒久平和を考えていけば、問題の本質がより明確になってくると思います。

たとえば、学会員であったとしても〝活力をそぐ法〟に従えば、それは悪であり、
それによって自分自身の生命力は弱まり、活力が低下していくことになります。

大石寺・日寛は

「善神は国を捨て去る(趣意)」(同頁)の文を〝万民の業感によるゆえ〟(日寛文段)

と解釈していますが〝善神が去る〟とは、生命力や活力低下を意味する言葉だと思います。

なぜかといえば、万民一人ひとりの生命力や社会の活力が旺盛でなければ、

不幸な人々を救っていこうという発想も、より良い社会を
築いていこうという発想も湧いてこないと考えるからです。

生命力と活力が低下した人間というのは、得てして

自分自身のことや家族のことで精一杯になり、常に日々の生活に追われて他人のことなど考える余裕もない――。