投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 2日(金)07時15分3秒   通報
その大聖人最高峰の教えを私なりに考察してみました。

相変わらずですが、もちろん、これも私の個人的な考察ですので、又違う見解の方がいらっしゃれば意見を伺えれば
うれしいです。

御書より

問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、答う法性(ほっしょう)の
妙理に染浄(せんじょう)の二法有り染法は熏(くん)じて迷(まよい)と成り浄法は熏(くん)じて悟(さとり)と成る
悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟(めいご)の二法二なりと雖(いえど)も然も法性真如(ほっしょうしんにょ)の一理なり、
譬えば水精(すいしょう)の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随(したがい)て其の功同じ
からざるが如し、真如の妙理も亦復(またまた)是くの如し
一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇(あ)えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり、

当体義抄 p 510

通解

問う、一切衆生の当体がそのまま妙法の全体であるならば、地獄界から菩薩界までの九界の業因業果も、
すべて妙法の当体であろうか。
答う、諸法の本性の不思議な理として、一念には「染浄の二法」がある。染法が働くならば迷いとなり、
浄法が働けば悟りとなる。
この悟りが、すなわち仏界であり、迷いは、衆生すなわち九界となるのである。この迷悟の二法は二では
あるけれども、しかもその根底においては共通した法性真如の一理である。譬えば、水精の玉は太陽に向ければ
火を取り、月に向ければ水を取る。
このように玉は一つであるが、縁によってその効能が同じでないようなものである。
十界に具わった真如の妙理も、また、このようなものである。法性の理は、ただ一つの妙なる真如の理では
あるけれども、悪縁にあえば迷いとなり、善縁にあえば悟りとなる。その悟りはすなわち法性であり、
迷いはすなわち無明である

以上引用終わり

ここで、大聖人は、私達の生命というものの存在やその機能を「水精の玉」に例えています。
「水精の玉」が太陽に面すれば、光熱を集め、月に面すれば、夜の冷えで表面に水滴を生じさせる。
同じ様に、私達の生命も外から受ける縁への反応の仕方によって、その結果が違ってくる。

この事から、この水精の玉とは、ただのクリスタルの塊ではなく、私達の生命そのものを表現していると思われます。

外の縁によって、自然的に反応するからには、水精の玉のその内部に、独自の自発性と生命の傾向性があるにちがい
ありません。
それによってそれぞれの水精の玉の、個としての違いが出てくることになるはずです。
では、それはどこから来ているのでしょうか。