投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 8月31日(水)10時01分51秒   通報
「棒ほど願って針ほど叶う」という言葉がある。祈りというものは、千祈ってはじめて一つか二つほど叶うもの。それだけ現実は厳しく、自分の思うようにはいかないということである。祈るということは、壮絶な戦いであり、功徳は勝ち取っていくもの。この心構えがなければ、祈りを成就することは困難である。

広宣流布を推進することは、難事中の難事である。千の祈りは当然として、その上で、全身全霊の行動が不可欠だ。中でも、もっとも難しいことは、悪を滅することである。圧倒的な祈りがなければ戦いにならない。そして、悪に対しては無慈悲であること、即ち厳父の信心でなければ打ち破ることは出来ない。厳父の信心とは、「容赦しない」ということです。この、悪と戦う心こそが創価三代の魂であり、学会精神です。それをいかに育むかが、創価教育の要です。

創価学会を一つの生命体と捉えるならば、その中には厳然と、第六天の魔王が存在する。悪と戦う心がなければ、それが見えなくなる。また、悪を見えなくさせるのが魔の働きである。あたかも、すべてがうまくいっているようにカムフラージュし、悪と戦う心を削いでいく。悪に寛容であればあるほど、悪は増長することを知らねばならない。

最近の聖教新聞はつまらなくなったと、私の周りでもちらほら聞こえてくる。私は、つまらなくなったというよりも、悪に対しての切り込みが足りないように感じる。悪に対しての論陣がなければ、グッとこない。そして、悪と戦う心の中に、仏意仏勅も存在する。それがなければ、「みんな仲良く」「万人向け」の、ありきたりな内容となってしまう。悪と戦う心が育まれなければ、54年同様、悪に飲み込まれてしまう。悪というものを意識し、人間の内面に迫っていく、そういう読み応えのある新聞になってほしいものである。

悪に対して容赦しない、厳父の信心を備えた人材を、どれだけ育成できるか。それが、今後の創価学会の存亡のカギとなる。人材育成といっても、どういう人材を育てるかだ。また、自分がどういう人材であろうとしているかである。悪と戦う人材を育て、増やすことが、54年の仇討につながる。それを邪魔する者は一体誰なのか。魔王の眷属に成り下がれば、たとえ善意であろうとも、広宣流布の妨げの存在となる。

悪と戦う心がなければ、結果的に悪に加担してしまう。それは、罪である。そうならないためにも、「気づき」が必要なのである。私は、そのために投稿している。創価学会の未来もまた、その先にあるのだから。