投稿者:螺髪 投稿日:2016年 8月16日(火)20時54分31秒   通報
 一人のSGIさん

 興味深く拝見させて頂いています。まさに普賢菩薩の登場です。法華経の結経は普賢菩薩観発品、再演法華の経です。別に公式見解でもありませんし、意見ですので、ご自由に、感じていることをお述べ下さい。あとは、グリグリさんがフォローしてくれるでしょう(笑い)。

 随方毘尼については、いま、まとめ中なのですが、途中経過からではこんなところでしょうか。

 仏法に、不変真如の理と、隨縁真如の智という哲理があります。
 「南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照」(御義口伝P708)

 「不変真如の理」は原理、原則の面といえます。「法理」でもあります。「隨縁真如の智」はその応用、現実への対応といえます。原理、原則の面を強調し過ぎれば、宗教界にもよくあるように「ドグマチズム」に陥りかねません。一方の応用、現実対応を強調し過ぎれば、世法に流されかねません。
 世界広布に向けた創価学会の「発迹顕本」も、この渦中にあることはまず間違いないでしょう。原理、原則の面を強調し過ぎれば、硬直したその国の文化と衝突しかねない一面があります。また一方、現実対応こだわり過ぎれば、いつしか根本の精神を忘れ去って、いわゆる土着信仰になってしまいかねません。

 私たちは「本門が大事だ」と教えられてきましたから、ともすると「本門」にだけ眼を奪いがられがちです。しかし、こんな仰せがあります。
 「法華経一部に於て前の十四品を捨つべき経文之れ無し本迹の所判は一代聖教を三重に配当する時・爾前・迹門は正法・像法或は末法は本門の弘まらせ給うべき時なり、今の時は正には本門・傍には迹門なり、迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさせ給う人人はいまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見なり」(四菩薩造立抄P989)

 いま、創価学会執行部の将来に向けての設計図づくりが、この応用、現実対応の方に力点が置かれているのは間違いないでしょう。のみならず、日本の少子高齢化の中で、創価の学校や外郭団体の維持存続、はたまた政治との関わり合いをどこまでにするかなどでも、応用、現実対応は否応なく押し迫ってきています。それは、ある意味、世俗化への大波と言っていいかも知れません。

 一方で、「心こそ大切なれ」と草創期からの精神の欠落を指摘する勢力も日増しに増えてきています。とりわけ、年配者にそれは多いでしょう。もちろん、「そうして草創期の精神を踏まえて見る見方がそもそも原理原則側じゃないか」との「論」も成り立ちます。「昔を懐かしむ」のはどの時代、どこの国でもあることです。「生命」というのはどうも、そんな基本構造を持っているようです。

 「何だ、結局、原理・原則主義と、現実対応側の路線闘争じゃないか」と、事態の掌握を矮小化してしまうことがよっぽど深刻です。そこが「一念寂照」です。「一念」の中に「随縁不変」が含まれます。「随縁不変・一念寂照」とありますから、不変真如の理も、隨縁真如の智も、「一念」に収まります。そこを考え、そこに納得と、将来への確かな方向性を見つけ出していくことが、いま導き出すべき「一念寂照」ではないのでしょうか。……

 というところでしょうか。