投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 8月15日(月)07時34分45秒   通報 編集済
琴の弦様
>組織、特に執行部ともなれば理想だけでは運営出来なくなる時が多いのでは無いかと感じる。
個人の主戦場は実社会であり、組織でのゴタゴタは職業幹部に任せて、会員さん1人ひとりは揚々と活動していけば良いと読み替えたけどなぁ

悪い幹部はほっといても自滅するさ<
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師弟の宝冠VOL.6より
「悪人は、ずるい。悪は悪を呼ぶ。その悪を見て見ぬふりをする人間も、ずるい。悪に対して黙っていてはいけない。戦わなければならない。」

「一人の悪人が野放しにされれば、千人の善人が損をする。悪は叩き出すのだ。断固として打ち破るのだ。師弟という原点に立ち、皆が団結してこそ、広布破壊の悪を根絶することができる。」

上記の池田先生の指導より、悪い幹部は放っておいても自滅することは、まずないでしょう。また、無間地獄に堕ちることが確定している人間は、今世で現罰が顕れないので、意気揚々としているものです。罰が出るレベルの悪人ならまだ救いようがありますが、仏法の世界は厳しい。

会員一人ひとりの一念が、「悪は絶対に許さない」となった時(団結)に、悪を打ち破っていくことが出来る。もしも会員が、「悪は放って置いても罰があり、滅びていく」という安易な一念であったら、魔の跳梁を許してしまう。これは、魔王が喜ぶのはどちらの一念なのかを考えればわかることです。

現実は妥協の連続かもしれない。しかし、それでも理想を求めて戦わなくてはならない。なぜなら、それが広宣流布であり、法華経を行じるということだからだ。安易な妥協は、いつしか、悪への妥協へとつながる。54年の悲劇も、悪に妥協した結果ではないか。

人間革命12巻より
「中心者が状況に妥協し、流されてしまえば、広布の活路など切り開くことはできない。また、そうなれば、そのもとにいる同志も、現状に追随するだけの惰弱な信心に陥ってしまう。それでは、広宣流布も進まなければ、自身の境涯を開くことも、宿業を転換していくこともできない。」

妥協とは、傾向性(自分の命)に流されるということである。それは、変わらないことを意味する。故に、人間革命することができない。信心とは、一面から見ると、妥協との戦いなのかもしれない。そして、悪への妥協へと誘う魔王は自分自身の中におり、その心を呵責する梵天・帝釈・日天・月天等の諸天善神も、自分自身に他ならない。

自分自身が諸天善神だと決め、悪を呵責する。これが信心の極意でしょう。誰かがやる、仏罰が下るのを待つのは、悪への護りだ。悪は責めてこそ打ち破れる。悪は絶対に許さない、妥協しない。その心が漲ってこそ、悪い幹部がいられない創価学会となる。つまり、宿坊の掲示板で訴えていることは、そういうことなのです。