投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 8月 6日(土)22時03分44秒   通報
御書P1494 通解
「これというほどの語(ことば)をもって法華経を謗ずる人は少ないけれども、法華経を用いないという罪は人ごとにあり、また用いているようであっても念仏のようには信心が深くない。信心の深い者でも法華経の敵を責めようとしない。どのような大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ得道はできないのである。」

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学会員といっても色々な人がいる。僭越ですが、この御文から現在の学会員を分類(あくまでも分かり易くするため)するとこうなるのではないか。

① 法華経を謗る人は少ないけれど、法華経を用いない=会員ではあるが、信仰心はない状態。
② 信心が深くない=信仰心(勤行・唱題はする)はあるが活動等にはあまり関心がない。
③ 信心深いが法華経の敵を責めない=勤行も唱題もし、学会活動も熱心だが、悪を責めるだけの何かはない。
④ 法華経の敵(悪)と戦う

法華経の敵を責めなければ得道できないということは、日蓮仏法の肝心要は、法華経の敵と戦うところにある。そうなると創価学会とは、「法華経の敵と戦う団体」ということになる。54年は、広宣流布の大功労者である池田先生を、会長から引きずり下ろしました。引きずり下ろした輩たちは、法華経の敵であることに異論はないでしょう。戸田先生が「第三代会長を守れ」「敵は内部だ」と、遺言されているにも関わらず、内部の法華経の敵に、いいようにやられてしまった。

それは一体何故なのか。戸田先生に、いまでは想像つかないほど、厳しい訓練・薫陶を受けた、百戦錬磨のメンバーたちが揃っていたはずなのに、おかしいではないか。法華経の敵に骨抜きにされ、悪と戦う心が失われてしまったのはどうしてか。では、今なら違うのか。ここが問われるわけです。

法華経の敵を責めるということは、迫害されることを意味する。相手のあることだから、無傷ではいられない。相手も自分を守る(正当化)ことに必死だからだ。波風が立つことは避けられない。しかし、法華経の敵と戦う心こそが仏そのものであり、その心がなければ、真に法華経を行じていることにならない。まことに仏法の世界は厳しい。

外部の法華経の敵を責めるのも困難だが、それ以上に難しいのは、内部の法華経の敵を責めることである。それができなかったのが54年である。まさに、難事中の難事とはこのことだ。ちなみに内部における法華経の敵とは、法華経の精神を死す者であり、組織においては、組織主義(組織悪)となってあらわれる。故意であろうと、過失であろうと、法華経の敵と戦う心を失わせる者は、魔の存在となることを知らねばならない。

どれだけ唱題し、学会活動に励んだとしても、法華経の敵と戦う心がなければ、組織悪に飲み込まれてしまう。そうなると、54年の二の舞になる。肝心要を外したら元も子もなくなる。54年の時は、池田先生自らが、内部の法華経の敵との戦いを起こし、学会と会員を護って下さった。では、これからは誰が学会並びに会員を護るのか。考えるとは意識することである。法華経の敵を意識することのできる人間こそが、学会厳護の人材なのである。