投稿者:螺髪 投稿日:2016年 8月 4日(木)06時01分32秒   通報
「仏」の生命を「根本清浄」と表現する時があります。「久遠の仏」や「永遠の仏」と同じものです。「清浄」といっても、汚れが一切ない清浄ではない。汚れを凌駕している清浄です。「平穏」といっても、騒ぎがない平穏ではないのと同じです。
中に汚れを蓄えての「清浄」、中に騒ぎを内包しての「平穏」ということであるでしょうか。

これは、「円満」が「個」を必ずしも融合したものではなく、「個」として全体の中に存在し、しかも「円」として「満つる」こととも一致します。それは、全体の中で、個が和することと同じだと言えないでしょうか。

全体の中で個が和するには、個を律するか、統制する働きが必ずあるはずです。
三毒・四悪を統制、律することを思い浮かべると解りやすいです。統制、あるいは律するものも、その生命体内にあるはずです。あるいは生じるはずです。そうでなければ、個が安定することはありません。
それが、全く性分が反対のものなのか、あるいは同種のものなのか、それは分かりません。だが、その双方が在ることで、個々は全体の中で、安定、調和する。おそらくは、同種のもの、異なるもの、その両方があるのでないでしょうか。
では、反対のものであるにしろ、同種のものであるにしろ、調和に向けて生じるものというのは、一体、何ものなのかということです。

言うまでもなく、われわれの生命も、十界も、三千も、妙法蓮華経の「変仮相」です。その十界、三千を統制、律するものもやはり、妙法蓮華経であるはずです。そうでなければ「妙法蓮華経」の「法」ではありません。

こんなふうに仰せです。何回も、引かせて頂いた仰せです。
「妙法蓮華の見なれば十界の衆生・三千の群類・皆自身の塔婆を見るなり、十界の不同なれども己が身を見るは三千具足の塔を見るなり、己の心を見るは三千具足の仏を見るなり分身とは父母より相続する分身の意なり、迷うときは流転の分身なり悟る時は果中の分身なり、さて分身の起る処を習うには地獄を習うなり、かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(御議口伝P797)。

「妙法蓮華」の知見であるのだから、妙法蓮華から生じた十界の衆生も、三千の群類も、それは皆、妙法蓮華という自身の変化相(=塔婆)を見ることと等しい。十界の相違はあるけれども、己が身を見るのは変化相の三千が具足する「塔」を見るということであり、己の心を見るというのは三千が具足する「仏」を見るということであると。「心身」に立て分けておられます。
そして、分身とは妙法蓮華の父母から相続する分身の意味であって、迷う時は流転の分身となり、悟る時は果中の分身となると。その、分身の起る処を習うには地獄を習うことであり、その宝塔も妙法蓮華経の五字より外はまったく無いのであって、妙法蓮華経を見れば、宝塔が即一切衆生であって、一切衆生が即南無妙法蓮華経の全体である、と読むことができます。

つまり、この宇宙は、あの重力を生み出す「ヒッグス粒子」と同じように、同種にも、反対のものにも成りうる、妙法蓮華経という宇宙の根源の「法」が充満していて、必要に応じて、あるいは縁に触れて、いつでも、どこでも、「変化相」となって、顕れ得ると言うわけです。

六道を律し、治めるのは、梵天・帝釈天です。欲界の頂上には第六天の魔王もいます。
生命の再生作業というのは、「清浄」を送り込むことではないのか。それが「南無」であり、「帰命」であり、「希望」であり、「善知識」であり、時に、「若い命」や「初生」がそれを代替えしたりするでしょう。根底は「信」です。

電車に乗っていて、面白い話を耳にしました。少し以前の話です。
若い女性二人が話します。中央線・車中だったと記憶します。
「涙が出るあいだは、まだ哀しみにたえられるんだって。お母さんが言ってた」。

古い世代ならご存じのはずです。それは、もう亡くなりはしたが、島倉千代子の「涙の谷間に太陽を」の一節です。
それを、娘の母が聞き、娘に語り、その娘が友だちに語っている場に、私が出くわしたというわけです。

歌の一番はこうです。

流れる涙 あるかぎり
まだ悲しみに 耐えられる
あなたよ 心に燃えている
若い命を 信じよう
呼ぼうよ呼ぼうよ 太陽を
涙の谷間に 太陽を

確か、島倉千代子はこの時、阪神タイガースの某有名選手との離婚で苦悶にあえいでいた時です。作詞家の西沢爽氏もそんな島倉を気遣ってに贈った詩だったのでしょう。

「まだ悲しみに 耐えられる」もさることながら、「若い命を 信じよう」の方がより重厚なのではないのでしょうか。
「若い命」――青年時代。幼少時代。誰もが純情だったはずです。その「心」を蘇すことができれば、人は蘇ります。「若い命」を復活させられます。そして催眠術療法のように、もっともっとさかのぼって、生まれる前の、そのずっと前までさかのぼると、きっと久遠の生命、元初の生命があるのではないか。きっとそれは、「根本清浄」ではないのかと。そう思ってもみるのです。

その三番には、こうあります。

木枯らしの道 辛くても
ひとりじゃないぞ 負けないぞ
あなたよ 明日の幸せは
結ぶこの手に 花ひらく
呼ぼうよ呼ぼうよ 太陽を
涙の谷間に 太陽を

「結ぶこの手」というのは、「人と結ぶ手」と同時に、もうひとつは「げんこつ」です。「花ひらく」は自分自身の「分身」です。上記の「分身の起る処を習うには地獄を習うなり」です。「げんこつ」を握るその悔しさが、「明日の幸せ」へ「花開く」ことになるのです。そう読んでみました。そのために必要なのが「太陽」です。「師匠」です。「永遠の師匠」です。

島倉千代子は、この歌をコンサートの最後に歌っていたようです。ちなみに、私は一回も参加したことがありません(笑い)。

「涙の谷間に太陽を」
歌 島倉千代子 作詞 西沢爽 作曲 和田香苗

西沢爽氏の作詞にはこのほか、美空ひばりの「ひばりの佐渡情話」、島倉千代子の「からたち日記」、小林旭の「ギターを持った渡り鳥」、舟木一夫の「仲間たち」「あゝ青春の胸の血は」などがあるようです。いつまでも、青年の心を持っていた作詞家だったのでしょうね。いえ、詩人というのは、本来、そうなのでしょう。池田先生も、桂冠詩人です。

青年の時代の思い、青年の時代の決意、青年の時代の約束を守る人こそ、真の「青年」です。

人と組織の関係は、仏、法、僧(=僧伽)の「三宝」に集約されるのではないでしょうか。人間主義の師匠が必要です。その法も不可欠です。そして、善知識としての僧伽(組織)も必要です。だが、伽藍としての僧伽にこだわり過ぎれば、師匠と法をいつしか失ってしまうことになりかねません。仏、法、僧伽の「三宝」は一体のものなのです。