投稿者:無冠 投稿日:2016年 8月 2日(火)22時03分50秒   通報 編集済
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2007-8-11~12 【ドクター部・白樺会・白樺グループ合同研修会】

■ きょう集われたドクター部、白樺会、白樺グループの皆さんは、学会の大事な存在である。多くの人
々の「生命の尊厳」を守っておられる日々の仕事に、心から感謝申し上げたい。
私はこれまで、著名な心臓外科医で、ヨーロッパ科学芸術アカデミー会長であるウンガー博士と語らい
を重ねてきた。その内容が今月、対談集『人間主義の旗を──寛容・慈悲・対話』(東洋哲学研究所)と
して発刊される予定である。
きょうは、博士が語られた内容のいくつかを通して、皆様とともに学び合いたい。
一、ウンガー博士は、「『対話と信頼』こそが、医療現場にとって不可欠の基盤なのです」と語っておられる。
これは、医療の世界に限らない、普遍的な道理であろう。広宣流布の戦いも、結局は「個々の対話」であり、「個々の信頼」が根本である。
また博士は、「行動」の重要性を強調された。
「(心臓外科医という)仕事がら、即断・即決が求められます。できるだけ早く決断し、行動に移す訓練を受けてきました。哲学的思考をもてあそぶのではなく、大切なのは行動です」
「他人と触れあうためには、自分から積極的に出向かなければなりません。他人が来てくれるのを待っていてはいけないのです。そして、それには自分自身が確固たる見解をもっことが必要です」
示唆深い言葉である。学会活動において、どのようにすれば皆が幸福になるのかを「考えに考え抜く努力」は、当然必要であり、リーダーの責務である。
そのうえで、あれこれ悩むだけでなく、勇気をもって一歩動く。まず、行動する。そうすれば、思わぬ展望が広がることがある。

●生命に対する「畏敬の念」
一、またウンガー博士は、医師の体験に基づく生命観を論じ合うなかで、述べられた。
「私自身としてはとくに、『生命がいつ始まり、いつ終わるのか』という問題に、医学者としてかかわっております」
「医者や科学者として生命にかかわっておりますと、生命に対する『畏敬の念』をもたずにはいられません」
率直な実感であろうと思う。
学会のリーダーは、人々に勇気と希望を与える”宿命転換のドクター”ともいうべき存在だ。その陣頭に立ってきた私もまた、博士の言葉に深い共感を覚える。
博士は、臨終の姿と、人の振る舞いについても述べられた。
「非常に満足し、幸せな人生を歩んだ人や、心が平穏で、自信をもって人生を全うした人は、よい生命状態で亡くなったといえるのではないでしょうか。その人が、もし生まれ変わるのであれば、よい生命状態で生まれてくるでしょう」
死は、間違いなく、すべての人に訪れる。人生の最終章であり、そのとき、一切の虚飾は、はぎ取られる。残るのは、その人自身の生命の実像のみである。
私は、信心根本で生き抜いた方々の、荘厳なる臨終の姿を、数多く見てきた。
妙法を信じ、広布のため、人のために尽くした分だけ、自らの生命が輝いていく。その福徳は、ご家族、そして子孫末代にまで広がっていく。それが、仏法の大原則なのである。

『ウンガー博士』
自分から積極的に出向かねばならない。
他人が来るのを待っていてはいけない。

■ 「聖職者たちは脅しにかかる」
一、ウンガー博士は、学会の歴史も深く理解してくださっている。
「戸田城聖第二代会長は、第二次世界大戦中、平和のために行動し、牢獄での不自由と困難をわが身に引き寄せられました。
それを原点として、創価学会が、とくに『核兵器のない世界』のために真剣に取り組んでこられたことに、敬意を表します」
見る人は、見ている。
さらに、聖職者の悪弊について、「自分たちの権威が弱くなることを、すぐに恐れる」「彼らはその一方で、すべての恐れる者がそうするように、脅しに訴えかけます」と指摘された。
古今東西の宗教改革は、聖職者の腐敗、権威主義との闘争でもあった。
私たちは日顕宗の”衣の暴力”を打ち破り、民衆勝利の凱歌を上げた。人権の歴史上、また日本の精神風土において、どれほど意義深き民衆運動か。皆さんは、誇り高く進んでいただきたい(大拍手)。
〈ウンガー博士は対談集のなかで次のようにも語り、SGI(創価学会インタナショナル)と池田名誉会長の行動を評価している。
「池田会長が『対話』を通して、ご自身の信念を示すのみならず、さまざまな宗教や文化的背景をもっ人々の声に積極的に耳を傾けておられることは、大変に素晴らしいことです。その発言、理念のすべてが、世界の差し迫った課題である『平和の実現』に貢献するものです。
とともに、ご自身のあらゆる友人の方々に、”創造的な人生を築き、価値ある人生を歩む”ために戦うよう励ましておられる。
この事実に、私は心から共感しているのです」
「SGIという国際的ネットワークは、『生命の価値』を基盤として、『平和の文化』の構築へ、力強い人道的行動を日々、重ねておられる。私は心から敬意を表します。平和のために努力する人であれば、だれもが、貴会の運動に心から賛同するでしょう」〉

●「よい仕事」が「団結心」を育む
一、きょうの参加者には、女性の方々も多い。さらにナイチンゲールの言葉を紹介したい。
彼女は、看護においては、「よい仕事」を皆で一緒に成し遂げ、目的や行為を共有することによって、「共感のきずな(団結心)を育むこと」が重要だと述べている(前掲『ナイチンゲール著作集第2巻』)。
まさに、「異体同心」の精神である。団結の心がなければ、バラバラになってしまう。同志とともに、また、先輩が後輩と一緒に祈り、一緒に動くなかでこそ、団結は深まる。後継者も育つ。
また、次のようにも教えている。
「この仕事にあっては、どんな小さなことでも、決してとるに足りない些細なことだなどと考えてはなりません。
反対に、この仕事以外にあっては、すべて個人的ないざこざや感情のこじれなどは、とるに足りない些細なことであると考えなさい」(同『著作集第3巻』)。
これも、重要な指摘であると思う。
広宣流布の前進においても、わずかな動きや異常も見逃さない。そうしたこまやかな配慮、精神力が、勝利への大きな流れを支えてきた。
最後に、アメリカの社会福祉事業家ヘレン・ケラーの言葉を贈りたい。
「楽観主義とは、ものごとを達成へと導く信念です。希望なくしては何事も成就することはできません」
「偉大なる哲学者、そして偉大なる行動の人たちは、皆、楽観主義者だったのです」
日蓮大聖人の仏法こそ、最高に力強い楽観主義の哲学である。無敵の生命力をわき立たせる希望である。
●「女人成仏」を示した法華経
一、法華経、そして日蓮大聖人の仏法の眼目は何か。
それは、「女人成仏」──すなわち、永遠なる「女性の尊厳」「女性の幸福」「女性の勝利」である。
これまでも、幾たびとなく語ってきたが、その意義について、あらためて確認しておきたい。
大聖人は「千日尼御前御返事」において、伝教大師、天台大師の釈を引かれ、「一代聖教の中には法華経第一・法華経の中には女人成仏第一なり」と仰せである(御書1311ページ)。
法華経以前の爾前経の経典は、「女人不成仏」であった。
この差別を根底から覆し、「女人成仏」を厳然と示したのが、法華経であり、日蓮大聖人の仏法である。

●根深い差別観を乗り越えて
一、古来、女性に対して、「五障」「三従」といわれる差別観があった。
「五障」とは、女性は梵天・帝釈・魔王・転輪聖王(てんりんじょうおう)・仏にはなれないという差別である。
「三従」とは、女性は小さい時は親に従え、結婚したら夫に従え、老いたら子に従え、という差別である。実に根ぶかい偏見であり、因習であった。
女性は成仏できない、という差別を大きく転換して、すべての女性の勝利を謳いあげた教え。
それこそが、法華経の提婆達多品で説かれる、「竜女の成仏」のドラマなのである。
それは、まさしく「師弟不二」の勝利劇であった。
提婆品では、大海の竜宮で弘教していた文殊師利菩薩(智慧を体現する。迩化の菩薩の代表)が、虚空会に現れる。
文殊に対して、智積(ちしゃく)菩薩は、「あなたは竜宮でどのくらいの衆生を化導してきたのか」と尋ねた。
すると文殊は、「竜宮において、もっぱら法華経を説いて無量の衆生を化導してきた」「竜王の娘である8歳の竜女が法華経を聞いて即座に悟りを得た」と答えたのである。
しかし智積は、竜女が成仏したという文殊の言葉を信じられない。
竜女は、成仏できないとされてきた女人であり、畜生の身であり、そのうえ、わずか8歳という幼さである。
智積は言う。
──仏の悟りとは、無量劫の間、難行苦行を重ねて初めて得られるものだ。
竜女が、即座に成仏できたなととは、到底、認めることはできない。──。
一、ところが、智積が言い終わらないうちに、竜女自身が会座に現れる。そして、根本の師匠と仰ぐ釈尊に対して語った。
「仏のみが自分の成仏を知ってくださっています。私は大乗の教え(法華経)を開いて、苦悩の衆生を救ってまいります」
たとえ、傲慢な者たちが、自分を認めなくともかまわない。師匠である釈尊は、すべてをわかってくださっている。竜女には、この大いなる確信があった。
妙法に生きゆく師弟不二の生命は、強く、尊く、そして朗らかである。
だが今度は、「智慧第一と謳われる舎利弗が、竜女に対して不信を述べる。
──あなたは短い間に無上道の悟りを得たと思っているが、このことは信じがたい。
なぜかと言えば、女性の身は汚れていて、仏法を受け入れる器ではないからだ。どうして無上の悟りを得ることなど、できるであろうか(できるはずがない)──
舎利弗をはじめとする、最高峰の知性とされる人々でさえ、どれほど傲慢に、どれほど冷淡に、どれほど疑い深く、若き竜女を見下し、侮っていたかを、物語っていよう。
●「王者の風格」は必死の戦いから
一、他人を見下す。自分がやるべきことを、だれかに任せて、何も責任をとらない。そういう人間が指導者になった組織は、周りから軽んじられ、信頼を壊してしまう。
学会の歴史においては、三代の師弟が誹謗されても、”知ったことではない”と言わんばかりの態度をとる人間が、退転していった。この峻厳な事実も、皆さんがご存じの通りである。
私は、たとえ無一文になろうと、身に危険が及ぼうと、学会の礎となり、捨て石となり、いい学会をつくりあげよう、それだけを思って生きてきた。
そして、同志を友情で結んできた。
牧口先生がそうであられた。戸田先生もそうであった。しかし、この心のわからない最高首脳もいた。
広宣流布の戦いは、死にものぐるいでやらねばならない。私は、不惜身命、勇猛精進で進んできた。だから学会は発展した。そうやって初めて、王者の風格が生まれる。人が育つ。
「師匠が弟子を決める」のではない。「弟子が師匠を決める」のである。これは、わかっているようで、難しいことだ。師匠の正義を満天下に示すには、弟子が結果を出す以外にない。

●竜女の成仏は「我が成仏」
一、さて、舎利弗の不信を受けて、竜女は、三千大千世界──宇宙大の価値にも等しい、一つの「宝珠」を取り出して、釈尊に捧げた。
釈尊は、宝珠を温かく受け入れた。
この宝珠は、その深義をいえば、宇宙の根本の法である「妙法」を表している。また、仏性を具える「生命」を表している。
竜女は舎利弗たちに対して、「自分の成仏は、この宝珠の受け渡しよりも速やかなのです」と毅然と述べた。そして竜女は、「我が成仏を観よ」と叫び、仏として一切衆生のために妙法を説きゆく姿を、はっきりと現したのである。
大聖人は竜女の成仏について、「舎利弗よ、これを『竜女の成仏』と思うのが見当違いなのだ。『我が成仏』なのだと観ていくのだ、と(竜女が舎利弗を)責めたのである」(御書747ページ、通解)と仰せになっいる。竜女の偉大な姿を見た娑婆世界の衆生は、大いに歓喜し、最敬礼を贈った。その衆生も竜女に続いて、成仏の記別を受けたのである。
厳然たる実証を前にして、竜女の成仏を疑った智積や舎利弗も、信受せざるをえなかった。これが、法華経に説き明かされた竜女成仏の劇である。
一、竜女の成仏の本質は「即身成仏」にある。
大聖人は、「(法華経の)第五の巻に即身成仏と申す一経第一の肝心あり」(御書1311ページ)
「此の経は女人成仏を手本としてとかれたり」等と仰せだ。
法華経では、それまで成仏できないとされた二乗にも、悪人にも、成仏の道が開かれた。
これらは画期的なことであるが、いずれも未来の成仏であり、「未来に成仏できる」と仏から保証されたものである。
竜女の成仏は、「即身成仏」であり、成仏の「現証」である。
「即身成仏」が示されなければ、法華経で説かれる「万人の成仏」も、結局、絵に描いた餅になってしまう。
この、重要な「即身成仏」の証明役を、最も虐げられ、最も軽んじられてきた竜女が、堂々と、晴れ晴れと果たしたのである。
私は常々、「一番、苦労した人が、一番、幸福になる権利がある」と訴えてきた。
この確信もまた、法華経に説かれた成仏観によるものであることを、知っていただきたい。
先にも述べたように、竜女が師・釈尊に手渡した宝珠は、わが生命に具わる仏性である。
その宝珠を、師・釈尊は完爾として受け取ってくださった。
それは、竜女の仏性が、まぎれもなく、仏の生命と一体であることを示している。
さらに、竜女は、師への誓願のままに、ただちに広宣流布へ、行動していった。
この具体的な実践が、即身成仏の姿そのものといってよい。
まさしく、創価の女性の皆様の振る舞いであると、私は思う(大拍手)。

●性別や地位は成仏と無関係
一、法華経では、真の成仏である「即身成仏」を示すにあたり、「女人成仏」という形をとっている。
その意義は、まことに甚深である。
朝な夕な、読誦している寿量品の自我偈には、「質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命」(「しちじき
いにゅうなん いっしんよっけんぶつ ふじしゃくしんみょう」)と説かれる。
「質直意柔軟」は、心がまっすぐで(質直)、囚われるものがない(柔軟)という意味である。
一心不乱に身命を惜しまず、求道心を燃やし、師とともに、広宣流布の大道を歩む。
その模範が、女性の弟子たちによって示されていることをこそ、よくよく知らねばならない。
大聖人は、「諸法実相抄」に綴られた。
「末法にして妙法蓮華経の五字を私めん者は男女はきらふべからず」(御書1360ページ)
「四条金吾殿女房御返事」には、「此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたり」(同1134ページ)と仰せである。
大聖人の仏法は、性別や社会的地位などは一切関係ない。ただ「信心の厚薄」によって成仏が決まる。
そして、信心強盛な女性こそが最も尊貴なりと、大聖人は最大に賞讃され、成仏は間違いないと励ましておられる。
鎌倉から、はるばる佐渡の一谷(いちのさわ)まで大聖人をお訪ねした女性門下を、「日本第一の法華経の行者の女人」(同1217ページ)と讃嘆なされ、「日妙聖人」の尊称を与えられた。そのほかにも、健気な信心を貫く女性に「上人」の号などを贈り、讃えておられる。

●奮闘する皆様方は宝の中の宝!
一、妙法を持った一人の真剣な女性には、だれもかなわない。
今日、広宣流布を最大に支えてくださっているのは女性の皆様である。
なかんずく、白樺の皆様方、そして女性ドクターの健気にして勇敢な奮闘は、学会の宝の中の宝である。
男性のリーダーは、このことを、ゆめゆめ忘れてはならない。
仏に等しい女性の同志に対して、威張ったり、叱ったりすれば、厳しい仏罰が出る。
大聖人は、「女人成仏」を説き明かした法華経こそが、悲母の恩を報ずることのできる真実の「報恩経
」(同1312ページ)であると述べられている。
御義口伝では、「竜女の二字は父子同時の成仏なり」(同746ページ)と仰せである。
また、開目抄において、「竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」(同223ページ)と断言されている。
広宣流布に生き抜く行動こそが、母も父も、さらに縁するすべての人々を成仏へ導いていく、大直道なのである。
現実は、さまざまな苦難の連続である。竜女がそうであったように、驕慢や無理解や偏見が、渦巻いているかも知れない。
しかし、妙法の師弟の道を生き抜く女性が、負けるわけがない。不幸になるわけがない。
そして、「今」「ここ」で、自分自身が断固として勝ちきっていくことが、未来永遠の女性の幸福の道を開くのである。
すべての母たちの幸福のために!
すべての女性たちの栄光のために!
これが、広布の道である。日蓮大聖人の御心であり、我ら創価学会の大願である。
この先頭を、颯爽と進みゆかれる婦人部、女子部の皆様、女性ドクター、白樺の皆様方の、ご健康と、
ご多幸を、私と妻は、これからも、さらに真剣に祈り抜いてまいります(大拍手)。