投稿者:無冠 投稿日:2016年 7月28日(木)20時24分2秒   通報
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2007・1・30 【戸田先生誕生記念最高協議会】

■ 私は、師匠の深い恩を片時も忘れたことはない。また、忘れることなど絶対にあってはならない。これが真実の師弟である。弟子の道である。
偉大な、不世出の師匠の名を全世界に宣揚するのだ──私は、若き日から、そう決意し、行動してきた。
各国のリーダーや知性とお会いした際にも、戸田先生、そして先師・牧口先生の偉大さを語ってきた。師の構想を、平和・文化・教育のあらゆる分野で実現した。
そして今、全世界から戸田先生、牧口先生への賞讃が寄せられる時代となったのである(大拍手)。
戸田先生の弟子の中には、師匠を侮り、小バカにした人間もいた。とんでもないことである。
そうした連中は、結局は退転していった。最後は、惨めであった。
この厳粛な事実を決して忘れてはならない。
ここは創価の「家族の集い」である。「本当の同志の集まり」だ。
嘘や形式などがあってはならない。未来のために、私は真実の歴史を語り残しておきたいのだ。

●尊き学会を守れ
一、戦後、学会は貧しかった。同志も、まだ少なかった。しかし、そのなかで、真剣に努力し、懸命に、広宣流布の基盤を築いてきた。
環境ではない。大事なのは、一人立つ信心である。
この精神がなくなってしまえば、どんなにお金があっても、どんなに人がいても、やがて組織は衰退していく。
ドイツの大文豪ゲーテ。大臣として、国家の困難の克服に挑んだ彼は、こう述べている。
「仕事を取扱う場合には正しく核心を掴(つか)まなければならない。
好き嫌いとか、愛著(あいじゃく)とか、依怙贔屓(えこひいき)とかの人情を以て取扱ってはならない。
ものの核心に依ること、即ち簡潔に厭應無しに正確に処理すれば仕事はより多く、より迅速に遂行することが出来る」(木村謹治訳『ゲーテ随聞記』桜井書店。現代表記に改めた)
無駄をなくし、公正に、堅実に、賢明に、物事を進める。そのなかに、発展も勝利もある。
ともあれ、牧口先生と戸田先生、そして戸田先生と私、さらには、無数の尊き同志が、心血を注いで築き上げた学会である。
もしも、この尊極なる学会の組織の上で、あぐらをかくような惰弱な幹部がいれば、皆で厳しく追及していくべきだ。

●先頭に立て!
一、ともあれ、一番、大切なのは、健気な民衆である。尊い学会員である。
一生懸命に弘教に励む人をバカにする。下に見る。それは仏をバカにすることにも等しい。とんでもないことだ。
信心のある人、妙法を流布する人が一番、偉いのである。この学会員をいじめたり、苦しめたり、利用した輩が、「終にほろびざるは候はず」(御書1190ページ)の末路を遂げていることは、厳然たる事実だ。
御聖訓には「悪は多けれども一善にかつ事なし」(同1463ページ)と仰せである。悪と戦ってこそ善である。そして、一切の悪を打ち破っていけるのが日蓮大聖人の仏法なのである。
巴金先生は語っておられた。
「私は青年を信じている。それぞれの時代には、必ず、すぐれた青年が出てくるし、すぐれた思想が出るものだ。
青年は、自分で、戦って、戦って、戦い抜いて、勝ちとったものを自分のものとすべきだ」
広宣流布の戦いも、自分自身が先頭を切って戦い、勝ち抜くのだ。勝った分、自分自身の境涯が広がる。戦いの舞台も大きく広がっていくのだ。

■ 一、戸田先生は、本当に偉大な師匠であられた。時を経るごとに、ますます先生の大きさ、ありがたさを感じる。
戸田先生のお誕生日をお迎えし、ますます師の大恩にお応えしゆくことを誓う日々である。

偉大なる
恩師と共に
学会は
三障乗り越え
三類勝ちたり

日蓮大聖人の御遺命のままに、広宣流布に身命を捧げた戸田先生は、真正の「法華経の行者」として、あらゆる増上慢と戦い抜かれたご生涯であられた。
広宣流布の実践には、必ず、三類の強敵(俗衆増上慢、道門増上慢、僧聖増上慢)が起こる。
この大確信で、戸田先生は一切の増上慢の勢力と戦われた。仏法に無智な衆生、邪智・慢心の坊主、そして、民衆を軽賎する権威や権力に決然と立ち向かわれた。
こうした三類の強敵の難を受け切り、三障四魔と戦い、あらゆる増上慢を断固、打ち破っていくことこそ、創価の師弟の道であることを示された。これが、三代の誉れの大闘争である。

●師子身中の虫
一、とともに、戸田先生は繰り返し繰り返し、こう戒めておられた。
──仏法者が一番、戦わなければならない、真の敵とは、いったい何か。それは、増上慢の「師子身中の虫」である──と。
御聖訓にも、「師子の身中の虫が師子をくらうという通り、仏教を外道は破りがたい。仏教の内部に事が起こって仏道を滅ぼすであろう。これが仏の遺言である」(御書1271ページ、通解)とある。
また、「日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それはたとえば、城の内部の者が城を破るようなものである」(同1337ページ、通解)と厳しく仰せである。
仏法の和合僧の世界は、外敵から破られることはない。しかし、「師子身中の虫」が師子を食み、「城の人間」が城を破るように、慢心の者が仏法の世界を内から破壊するのである。
「心こそ大切なれ」(同1192ページ)と結論なされているごとく、信仰で最も大切なものは「心」である。
いかなる迫害や弾圧があっても、「心」が屈しなけれぼ、破れることはない。
しかし、悪知識(人々を迷わせ、仏道修行を妨げる者)は「心」そのものを破る。「心」が破壊されれば、もはや仏法の命脈は断絶してしまう。
この「心」の世界を破る仏法破壊の魔性の生命が「増上慢」である。だからこそ、仏法者は、増上慢と戦わなければならない。
これが、釈尊、大聖人の御遺誡であられる。そして、戸田先生の遺言であられた。

一、「慢」は、自身の生命を破るだけでなく、他者の生命をも破壊する。
つまり慢心に囚われれば、成長は止まる。いな「進まざるは退転」であり、堕落が始まる。さらに慢心は、同志や後輩を苦しめ、その前進を妨げる。そして、ついには和合僧を破壊する。
ゆえに、増上慢の人間は、峻厳に戒め、退けていかなければならない。その戦いを避けるのは、ずるい人間である。

●法華経.の会座と「上慢の四衆」
一、法華経の会座でも、師・釈尊の教えを聞こうとせず、退座した五千の「上慢の四衆」がいた。
〈「上慢」とは、増上慢。いまだ最高の法を得ていないのに得たと思い、傲りりたかぶること。「四衆」とは、「出家した男女」と「在家の男女」の仏門の4種の弟子をいう〉
御義口伝では、上慢の四衆についての天台大師の文を引かれ、さらに、次の妙楽大師の文を引用されている。
「自らの疵(きず)をかくし、外面には徳のあるがごとき姿を示すのは上慢の姿であり、自ら省みることができないというのは我慢の姿である」(同718ページ、通解)
自らの誤りや欠点を隠しだてしたり、見栄を張って自分を取りつくろったりする。反省もしない。そうした気取りは、自分を小さく窮屈に閉ざしてしまうだけだ。
ありのままの姿で、自分らしく伸び伸びと向上していくことだ。そして師匠の指導を受け、よき同志と切磋琢磨(せっさたくま)しあいながら、自分自身の境涯を大きく開いていけばよいのである。
「自分」中心か「師匠」中心か
一、信心の大敵は、「慢心」や「我見」である。
牧口先生も厳しく言われていた。
「我見の信心の人は、ちょうど尺八を逆に吹いているようなものだ。濁った音は出るかもしれないが、本来の美しい音色の功徳は出ない」
「自分」中心ではいけない。どごまでも「法」中心、「師匠」中心で、最後まで生き抜くのが仏法の世界だ。また、正しい人間の世界だ。
とくにリーダーは、この点を厳しく律しなければいけない。リーダーが自分中心になってしまうと、皆が本当にかわいそうだ。
他者の尊厳を 認めない心
一、慢心は、十界でいえば「修羅界」に当たる。この生命の魔性については、過日の「SGIの日」記念提言でも論じた通りである。
「勝他の念(他に勝ろうとする心)」に支配されるあまり、人を下し、他を軽んじ、他者の生命に具わる尊極の仏性を認めようとしない。
しかし仏法の最高峰の教えである法華経は、平等大慧の「万人成仏の法」である。すなわち、すべての人に仏性があり、どんな人も仏になることができると説いている。 他者の仏性を認めず、我のみ尊しとする「慢心」は、仏法に対する違背となるのである。

●五種の過失(かしつ)
一、御書には、この万人の成仏を否定する慢心など、仏道修行を妨げる「五種の過失」が紹介されている(御書426ページ)。
第1は、「下劣心(げれつしん)」である。だれもが仏であるとの教えを知らず、自身に「下劣」の心を起こし、菩提心を起こせないことをいう。
第2は、「高慢心」である。わかりやすく言えば、思い上がりである。自分は特別である、偉いとうぬぼれる慢心とも言える。
「慢心」の者は、仏法を正しく聞けない。他者の生命に仏性が具わることを信じられず、その可能性を疑う。ゆえに、人々を救っていこうという心を起こすこともできないのである。
人を見下し冷酷に扱うのは、慢心の反逆者に共通した本性である。
傲慢(ごうまん)な人間は必ず威張る。しかし威張るだけでだれも救えない。現実に広宣流布を進めることもできない。
第3は、「虚妄執(こもうしゅう)」である。虚妄(うそ、いつわり)にすぎない我に対する強い執着をいう。
「法」が根本でない人は、我見に走り、わがままになる。

第4は、「謗真法(ぼうしんぽう)」である。真実の法を謗ずることだ。
慢心の者は、仏法の根本軌道から外れ、仏や法を誹謗し、師敵対する。
第5は、「起我執(きがしゅう)」である。我執を起こし、自己中心で衆生を思いやる心がない。自分さえよければと、一切衆生を救う使命を忘れ去ってしまうことである。
一方、慢心と対極にある心が、悟りを求め、修行に励み、人々を救っていこうとする「菩提心」である。
人々を尊敬し、人々を信頼し、人々を大切にして、誠実に粘り強く働きかけて、ともに幸福になっていこうとする学会活動の中に、この生命は躍動していくのである。

■ 「戸田先生を偲んで、先生のご指導を確認しておきたい。
「正義の民衆は、また正義の女性は、そして、正義の青年は、断じて負けてはならない。断じて勝たなければならない」
さらに先生.は、「大悪をこ(起)れば大善きたる(御書1300ページ)との御聖訓を引かれ、「最後は正しいものが勝つ。正しい信心をしているものが勝たないはずがない。われわれは堂々となすべきことをやっていくだけだ」と叫ばれた。
正義は断じて勝つ!──この心意気でやろうではないか(大拍手)。

一、広布に励む婦人部、女子部を心から尊敬され、大切にされた先生であった。
「婦人部に感謝できず、婦人部に傲慢な態度を示す幹部は、絶対に学会から去れ!」と厳しかった。
また次のように婦人部の友に励ましを贈られたこともある。
「苦しみや悲しみ、悩みもあろう。だが、じっとこらえて御本尊を仰いでみなさい。夜空には、無数の星が満天にきらめいているがごとく、御本尊の慈光もあまねく星のごとしなのだよ」と。
ありがたいことに、先生は、会員の生活のことや、家族のこと、子どものこと、将来のことなど、細かいところまで考えて、面倒をみてくださった。それが、創価学会の会長の姿である。
先生の「一人を大切に」とのお心を受け継いで、私は、今日まで同志のために走り抜いてきたつもりである。(大拍手)
恩師の叱咤
一、何から何まで、厳格な先生であった。だからこそ、学会は、ここまで発展してきたのである。
「戦いは真剣さが大事だ。真剣でなくては悔いが残るぞ」
「『いかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ』(同504ページ)と──この決心なくして、信心のリーダーとはいえない」
また戸田先生は、私に語ってくださった。
「人生、行き詰まった時が勝負だぞ! その時、もう駄目だと絶望し、投げやりになってしまうのか。まだまだ、これからだと、不撓不屈で立ち上がるのか。この一念の分かれ目が勝負だ!」
忘れ得ぬ恩師の叱咤である。

■ 一、最後に恩師の生誕107周年を慶祝し詠んだ和歌を紹介させていただきたい。
偉大なる
恩師のもとで
晴ればれと
広布に走りて
勝ちたる青春
わが人生
師弟不二なる
正道を
戦い勝ちたる
名誉は永遠にと

人生に
ありて尊貴な
生涯は
師の恩報ずる
金の道かな

全国、全世界の同志の皆さまのご健康とご活躍、そして、ご一家のご多幸を祈りつつ、記念のスピーチを終わります。
長時間、ありがとう!
風邪などひかないように。またお会いしましょう!(大拍手)