投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2016年 6月23日(木)02時31分53秒
「みょうじょく」への、いちこうさつ「じょう」
とうこうしゃ、らほつ とうこうび、2016ねん 、6がつ、13にち、げつ ようび
だいぶつの、グリグリのとこさん、【にょせつしゅぎょうと、ふきょうぼさつのじっせん】じっくりと、よませていただきました。

いんようです
>ほけきょうぜんたいをみて、じゆうのぼさつに、たいして、ふぞくが、とかれた「じんりきほん」の、、ちょくぜんに、
ふきょうほんが、おかれているのは、ふきょうぼさつも、じゆうのぼさつであり、まっぽうに、みょうほうを、ぐつうする、じゆうのぼさつのじっせん、
ぶつどうしゅぎょうの、ありかたを、ふきょうぼさつという、ぐたいてきなじんかくをとおして、ときしめしたのが、ふきょうほんなのだとおもいます。
こうかんがえれば、だいしょうにんの
「いちだいのかんじんは、ほけきょう、ほけきょうのしゅぎょうの、かんじんはふきょうほんにて、そうろうなり」ごしょ1174ぺーじということばが、せんめいに、りかいできるし、
だいしょうにんが、けんぶつみらいきで、ひょうめいしている
「いおんのうぶつの、ぞうぼうのとき、ふきょうぼさつ、『がじんきょう』とうの、24じをもって、かのどに、こうせんるふし、
いっこくの、じょうもくとうの、だいなんをまねきしがごとし。

かの24じと、このごじと、そのご、ことなりといえども、そのこころ、これおなじ。
かのぞうぼうのすえと、これのまっぽうのはじめと、まったくおなじ。
かのふきょうぼさつは、しょずいきのひと、にちれんは、みょうじのぼんぷなり」
ごしょ507ぺーじ
ということばも、めいかくになります。いんようおわり。<

すばらしいですね。とても、われわれには、まねのできないろんこうです。
しかし、さびしいですよね。なんのはんのうがないっていうのも。
みんな、えんりょしているのです。グリグリさんやジョーカーさんは、わたしたちとちがうひと、なんてね。これも「ざんき」でしょうか。
せっかく、きょうきんをひらいて、とうこうしてくださっているのに。そんけいのおもいなのですが、やはり、はんのうはあったほうが、いいにきまっています。

そこで、わたしめのぐこうをひとつ。
だいして「みょうじょく」へのいちこうさつ。

コンプレックスは、れっとうかんと、やくされることがおおい。
だがせいかくには、「れっとうかん」inferiority complexと「ゆうえつかん」superiority complexのふたつがあり、このうちの「れっとうかん」が、ひろくつかわられているということのようです。
ちゅうがくせいだったか、こうこうせいせいだったか、えいごのせんせいがそれをじゅぎょうちゅうにかたってくれて、いたくかんしんしたものです。「えいごにもこんなてつがくせいがあるんだな」ってね、いまは、せいしんいがくのほうで、つかわれることのほうが、おおいようです。

「Complex」は、ラテンごの「com」ともに「plectere」あむ、おるが、あわさったことばだといいます。
おりこむのいみだそうです。ふくごうかんじょうとか、ふくごうかんねんともとらえられ、じょうちょてきに、つよくいろづけされた、ひょうしょうが、ふくごうしたしんりとも、されます。
あるいは、よくあつ、されながら、むいしきのうちに、そんざいし、げんじつの、こうどうに、えいきょうりょくを、もつものともされています。
なんのことはない。せきさんされた、「ぞうしき」のことではないかと、おもったものです。りょういきのちがいこそあれ、あの、くしきろんで、とく、だい8ばんめの「あらやしき」「ぞうしき」ではないか、と。このときぐらいからですかね、わたしの、てつがくてきしこうのくせが、はじまってしまったのは・・・。

だれのなかにも、こころのなかに、せきさんされた、ふくごうかんねんがあり、これが、ひていてきないみでも、ぎゃくに、こうていてきないみでも、そのひとのひょうそうのいしきに、あらわれるということなのでしょう。
ふくごうかんねんは、「3000」とも、しゅうちゃくのいみの「じゃく」とも、とらえられます。
ひていてきな「れっとうかん」は、ひかくてき、よういです。「た」とくらべて「おとる」とみるから、ひけめをかんじるのでしょう、くらべなければ、ひけめはしょうじません。

こうていてきな、ふくごうかんねん、つまり「ゆうえつかん」というのが、すこしわかりずらい。でも、にんげんのすじょうは、むかしも、いまもあまりかわりませんから、ことわざや、ばあいによって、せんりゅうにもとうじょうしてきます。

「たにんのふこうは、みつのあじ」
「となりのびんぼうは、かものあじ」
なんかはそうでしょうか。
たのひとにたいして、「みくらべ」のかんじょうをだいているとき、そしてそれをみぬいたとき、よりつよく「よろこび」としてかんじます。
つまり、ここでも「た」がはいってきます。
じぶんが、そのくるしみをしっているからこそ、それをうわまわっていることに、「よろこび」をかんじます。あまりかんしんできる、かんじょうでないことはあきらかです。

パソコンふきゅう、とうしょにも、そのようなじたいがありましたね。
しょしんしゃは、すべてのぎじゅつをしってさんかするひとはまずまれで、おしえるがわはそのひとつひとつを、おしえるのはとてもめんどうですから、どちらかといえば、さけます。「まずそうさするのがいちばん」と、そのひとにやらせ、「おお、そこまできたか」などと、うしろでほくそえんでいたひとも、いたのでないでしょうか。その「ろうく」がわかるからです。これも、ひとつの「ゆうえつかん」ですね。

このあたりは、ラカニエンヌさんが、せんもんも、せんもん、プロフェッショナルです。まちがいがあれば、ごしてきください。ただし、われわれしょみんにも、わかりやすくおねがいします。「そんなこといってないで、べんきょうしなさい」とおしかりをうけるかもしれませんが・・・。

いまはよまなくなりましたが、ほけきょう、じゅりょうほんだい16の、ちょうぎょうに「ぎょうおしょうぼう とくはつくじゅうしゃ」しょうほうを、ねがえる、とくはつくじゅうのものと、あります。つまり、とくがうすく、あかのかさなる、しゅじょうはどうしても、しょうほうをもとめてしまう、というのです。やはり、どこまでいっても「こしんのほう」です。
でも、このすぐのちに 「いぜにんせつ がしょうしゅっけ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい」とあります。「こののために われほとけは、わかくしてしゅっけし あのくたらさんみゃくさんぼだい《さとり》をえたり」といういみです。
つまり、このかしょを、つうどくすれば、ほとけは、しょうほうをねがう、とくはつくじゅうのものを、すくわんがために、わかくしてしゅっけし、あのくたらさんみゃくさんぼだいを、えたというのです。
グリグリさんの、こうぎによれば、それは32そう80しゅこうではなく、ぼんぷのすがたをした、「ぼさつ、ほとけ」です。

さて、その「とくはつくじゅうもの」です。
「とくはつ」と、「くじゅう」に「わけましょう。
「とくはつ」は、「とく」が「うすい」とよんでいいのでしょう。
こちらは、ひかくてきよういです。
「とく」、「さんとく」は、「さんたい」や、「さんしん」と、おなじものです。

こうおおせです。
「ほうもん、おおしといえども、たださんたいなり、このさんたいを、さんじんにょらいとも、さんとくくきょうとも、もうすなり、はじめのさんにょぜは、ほんがくのにょらいなり、おわりのななにょぜと、いったいにして、むにむべつなれば、ほんまつくきょうとうとはもうすなり」、いちねん3000、ほうもん、P413、
さんとくの、、はんにゃ、さんたいの、くうたい、さんじんの、ほうしんでよめば「ほとけのちえ」です。

そのちえは、
「ちえとは、なむみょうほうれんげきょうなり」、おんぎくでん、P725
とおおせです。きゅうきょくてきには、しょうだいしかないということです。

さてさて、もうひとつの「くじゅう」です。