投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2016年 6月22日(水)02時01分49秒
ほけきょうの、かいしゃく。
ほけきょうはいつ、どこでへんしゅうされ、かんせいしたのかを、さぐってみると、
ほけきょうほんぶんの、ないようからかんがえられることは、ぶつぞうのぞうりゅうと、こうみょうのそうごん、また、あみだぶつがとかれているので、 おそらく、こうみょうしそうの、えいきょうが、けんちょになった、きげんいちせいき、こうはんいこうで、しかも、あみだきょうの せいりつが、きげん140ねんごろ「じょうど、さんぶきょう、げ」いわなみぶんこ、とされているので、 ほけきょうせいりつは、にせいきこうはん、いごだとかんがえられます。

きげんぜんごの、ぶっきょうかいの、ようそうは、だいじょうぶっきょうが、しょうじょうぶっきょうを、ひはんし、しょうじょうぶっきょうの、にないてである、しゅっけのでしを、じょうぶつできない、そんざいとしてはいせきし、だいじょうぶっきょうは、ぼさつのいきかたを、きょうちょうしていました。

しかし、しょうもん、えんがくをはいじょし、ぼさつどうを、きょうちょうするだけでは ぎゃくに、しょうもん、えんがくを、さべつすることになり、「ばんにんがぼさつとなって、じょうぶつをめざすべきである」とする、だいじょうぶっきょうの、りそうとせいしんは、じつげんできないことになります。

そこで「しょうもん、えんがく、ぼさつ」のさんじょうを、ほうせつし、ばんにんがぶつじょうを、めざすべきであるとして、 いっさいしゅじょうに、びょうどうのじょうぶつのみちを、といたのがほけきょうなのです。

つまり、ほけきょうは、しょうじょうと、だいじょうの「たいりつ」を、こくふくすることを、いとして、へんさんされた、きょうてんではないかと、かんがえます。
――1

ほけきょうを、とくにあたり、さいしょに、とかれたのが、「じょぼんだいいち」ですが、ここに、えがかれるないようは、せっぽうのぶたい、りょうじゅせんと、そのえざにあつまる、たいしゅう、きゅうかいのしゅじょうと、かいぶつのたぐいらが、しょうかいされ、 しゃくそんが、あらわしたずいそうが、かたられています。

そして、そのずいそうをみた、みろくの「ぎもん」を、もんじゅしりにしつもんし、 もんじゅしりが、みろくのしつもん、にこたえるというこうせいになっています。

しゃくそんは、たいしゅうのまえで、だいじょうきょうを「むりょうぎ」となづけ、ほとけが、まもり、ねんじてきた、おしえをときます。
そのご、しゃくそんは、むりょうぎしょざんまいに、はいると、てんからまんだらけがふり、せかいが、ろくしゅにしんどうしたと、のべられます。

さらに、ひとびとの、じもくをおどろかす、だいずいそうが、そのごにおこります。

そこには、しゃくそんのみけんの、びゃくごうから、ひかりをはなち、とうほうのいちまんはっせんの、せかいをてらしだし、 それぞれの、せかいには、ほうをとくほとけをはじめ、じごくから、ぼさつまでの、きゅうかいのしゅじょう、がうつしだされていることが、えがかれています。

また、ほとけのにゅうめつごには、ほとけのいこつをくようするために、しっぽうのほうとうを、たてているすがたも、きさいされています。

これらの、ずいそうには、さまざまな、いぎがひめられていると、おもうのですが、 みろくぼさつも、このずいそうのいみを、もんじゅしりぼさつにしつもんしています。

このじょぼんだいいちの、ポイントは「もんじゅと、みろくのたいわ」にあるとかんがえます。

まえおきがながくなりましたが、 じょぼんだいいちに、とかれている、もんじゅとみろくの、たいわから
「そうかしそうの、えいえんせいと、ぐうぞうか」について、かんがえて、いきたいとおもいます。
――2

まず、じょぼんだいいちのなかで、みろくぼさつは、しゃくそんの、あらわしたずいそうをみて、 「いま、ししょうは、じんずうへんげの、すがたをあらわした。
いったいどのような、いんねんによって、このずいそうがあるのだろうか。
そしていま、ししょうは、さんまいにはいられた。
これは、ふかしぎで、けうのことである。
このことの、いみをだれにきけばいいのか。
だれが、このぎもんに、こたえられるだろう」、

そしてまた 「もんじゅしりぼさつは、これまで、かこのむりょうの、しょぶつにくようしてきたのだから、 きっと、この、けうのようそうを、みたであろう。
まさにかれに、とうべきだ」といって、 みろくは、えざに、つどう、たいしゅうのぎもんもふくめ、だいひょうして、もんじゅしりに、しつもんします。

「もんじゅしりよ、どのようないんねんがあって、ほとけは、ずいそうである、じんずうのそうを、あらわされたのか。
ししょうが、いだいなこうみょう、みけんの、びゃくごうのひかりを、はなってとうほうの、いちまんはっせんの、こくどをてらし、 すべての、ほとけのこくどが、そうごんであることが、みえたというのは、。どういういみなのでしょうか」と。

みろくに、こうといかけられた、もんじゅしりは、なんとこたえたのでしょうか。

それは 「わたしがおもうには、いまこそ、ほとけは、たいほうをとき、たいほうのいぎをとくでしょう。というのは、 わたしが、かこのしょぶつにおいて、このような、ずいそうをみたとき、しょぶつは、このひかりをはなちおわってから、たいほうをとかれました。

だからいま、しゃくそんが、ひかりをあらわされたのも、かこのしょぶつと、どうように、いっさいせけんが、しんじがたい、ほうをしゅじょうにきかせ、しらせたいと、おもうからこそ、この、ずいそうを、あらわされたのです」とこたえます。

そしてもんじゅしりは、かこの、しょぶつ、かこぶつの、れいとして、にちげつとうみょうにょらいぶつの、そんざいをしめしました。

もんじゅしりが、かたった、「にちげつとうみょうぶつ」の、はなしをせいりすると、

①、にちげつとうみょうぶつは、「しょうもん、えんかく、ぼさつ」を、もとめるものには、それぞれの、きこんにおうじて、 したい、じゅうにいんねん、ろくはらみつの、おしえをといた。

②、にちげつとうみょうぶつという、おなじなまえのほとけが、にまん、そんざいした。

③、さいごの、にちげつとうみょうぶつに、はちにんのおうじがいて、ちちが、しゅっけして、ほとけのさとりをえたのをきいて、 かれらも、しゅっけし、ぶつどうしゅぎょうにはげんだ。

④、にちげつとうみょうぶつは、だいじょうきょうを、「むりょうぎ」となづけ、ほとけが、まもりねんじてきた、おしえをとき、 そのご、むりょうぎしょ、ざんまいに、はいった。

⑤、そのとき、てんから、まんじゅしゃげなどが、ふって、だいちがろくしゅに、しんどうした。
また、ほとけが、みけんのびゃくごうから、ひかりをはなって、とうほうのいちまんはっせんを、あまねく、てらしだした。
それぞれの、ぶつどでは、そうごんなすがたをした、しょぶつがほうをとき、ぼさつやしょうもんが、しゅぎょうにはげんでいた。

⑥、にちげつとうみょうぶつは、でしである、みょうこうぼさつにたいして、だいじょうきょうを、「みょうほうれんげ」となづけ、 ほとけが、まもりねんじてきた、おしえ、ほけきょうを、ろくじゅうしょうこうのあいだ、といた。

⑦、にちげつとうみょうぶつは、そのせっぽうのあと、たいしゅうにむかって、「わたしは、あなたたちのしょほうじっそうの、ぎをといた」と かたり、そのひのやはんに、ねはんに、はいるとのべた。

⑧、にちげつとうみょうぶつは、とくぞうぼさつに、じょうぶつの、きべつをあたえたあと、やはんに、にゅうめつした。

⑨、みょうこうぼさつは、にちげつとうみょうぶつの、めつご、みょうほうれんげきょうを、じゅじして、はちじゅうしょうこうのあいだ、ほけきょうを、といた。

⑩、にちげつとうみょうぶつの、はちにんのおうじたちは、みょうこうぼさつを、ししょうとして、しゅぎょうし、じょうぶつした。
さいごに、じょうぶつしたものを、ねんとうぶつという。

⑪、みょうこうぼさつの、でしの、ぐみょうぼさつは、りがいに、しゅうちゃくして、きょうてんのないようも、りかいできなかったが、
かこせに、ぜんこんをうえた、いんねんのゆえに、しょぶつにあい、しょぶつをくようして、いま、しゃくそんにであった。

⑫、そのぐみょうぼさつは、こんにちのみろくぼさつであり、みょうこうぼさつは、こんにちの、もんじゅしりぼさつである。
――3

この、もんじゅしりぼさつが、かたるにちげつとうみょうぶつの、はなしは、じょぼんだいいちの、「さんぶんと、げじゅ」で、ほぼおなじないようですが、げじゅのほうが、よりしょうさいで、ふみこんだないように、なっています。

この、げじゅのないようを、みていくと、ほうべんぽんいこうの、ほけきょうぜんたいの、ないようと、みっせつにかんれんしていることが、わかります。

ここで、かたられていることは、 まず、にちげつとうみょうにょらいという、おなじなまえをもつ、ほとけがにまんいたという、ひょうげんは、いいかえれば、ほとけとおなじきょうがい、 ほとけと、どうかくしゃが、たすうそんざいするともとれるし、しゅうだんぜんたいを、ひとつのほとけとして、ひょうげんしているともとれます。

これは、うちゅうにおいて、ほとけはふへんてきに、そんざいするという、だいじょうぶっきょうの、ぶっだかんをしめしているのだと、おもいます。

また にちげつとうみょうにょらいは、「しょうもん、えんかく、ぼさつ」のきょうちをもとめるものの、ために、 それぞれの、きこんにおうじて、したい、じゅうにいんねん、ろくはらみつの、おしえをといたと、されていますが、 これも、ほうべんぽんで、しゃくそんが、さんじょうをけどうするために、それぞれきこんに、おうじておしえをといてきたことに、ふごうします。

つまり、きこんにおうじて、さまざまなほうべんの、おしえをとくという、けどうほうしきは、 にちげつとうみょうにょらいも、しゃくそんも、おなじであるということです。

さらに、 はちにんの、おうじが、みょうこうぼさつの、きょうけによって、じょうぶつし、そのあと、かれらが ひとびとの、ぶっぽう、しどうしゃと、なって、しゅじょうをきゅうさいしていくと、されていることは、 ぶつでしが、すくわれる、そんざいからすくう、そんざいへと、へんかしていくことを、しめしています。

でしが、ほとけとおなじこころで、ほとけが、といたほうと、おなじほうをといていく・・・まさに、にょぜがもんです。

しょきょうの、おうと、うたわれたほけきょうは、ぼうとうから「してい、ふに」のありかたを、きょうちょうしている、きょうてんなのです。
――4

いけだせんせいは、

「『にょぜがもん』のこころとは、『していふに』のこころです。それが、ぶっぽうでんじの、ごくいです。
いっさいしゅじょうを、すくおうとするほとけの、いちねんと、その、おしえをたいとくし、ひろめようとする、でしのいちねんが、
ひびきあう『していふに』のドラマ・・・それが、『にょぜがもん』の、いっくに、けっしょうしている」
ほけきょうのちえ、いちかん89ぺーじ、

と、のべられています。

このように、ほけきょう、じょぼんだいいちを、みていくと、じょぼんの、ポイントは、かこのほとけである、にちげつとうみょうにょらいが、びゃくごうの、ひかりで、せかいをてらす、ずいそうをしめしたあとに、ほけきょうをといたことから、 おなじ、ずいそうをしめした、しゃくそんも、せんぶつ、にちげつとうみょうにょらいと、どうようにほけきょうを、とくであろうと、よげんしたことにあります。

つまり、ほけきょうは、しゃかぶつだけが、とくものではなく、おおくのほとけが、とくふへんてきな、おしえであるとするみかたです。

じっさいに、にちげつとうみょうにょらいだけでなく、だいつうちしょうぶつ、いおんのうぶつ、ふきょうぼさつなども、ほけきょうを、といたとされているし、 とだせんせいは、しょうほう、ぞうぼう、まっぽうという、さんじにおいても、それぞれのほけきょう、しゃくそん、てんだい、にちれんが、あるとのべられています。

わたしたちに、おきかえていえば、ししょうのこころを、わがこころとし、まっぽうのきょうてんごしょと、そうかさんだいのしどうを、にょぜがもんして、とくひとは、 だいしょうにんと、おなじく、そうかさんだいの、ししょうとおなじく、ほけきょうのぎょうじゃであり、ぶっぽうしどうしゃに、なりうるそんざいであると、いうことです。

かんぶだから、しどうできるというのではなく、ししょうのこころを、こころとしているか、いなかです。

このどうりが、わからないひとが、ほとけをぐうぞうかしていくのだと、おもいます。
――5

だいしょうにんは

「ぶっきょうを、ならはんもの、ふぼ、ししょう、こくおんを、わするべしや、このだいおんを、ほうぜんには
かならず、ぶっぽうをならひきはめ、ちしゃとならで、かなうべきか」ごしょ、293ぺーじ

と、うったえました。

ぶっぽうを、ならいきわめようとしない、にんげんが、 どうして、おやのおん、ししょうのおん、くにのおんを、ほうずることが、できるのでしょうか。

ちしゃと、ならないで、どうしてみんしゅうを、しあわせのきどうに、のせていくことができるでしょうか。

しんじんのきほんは、「しん、ぎょう、がく」です。
この、みっつのかもくを、きわめようとしないにんげんが、どうして、せんせいなきあと 、「やまもとしんいち」のじかくにたって、こうせんるふを、していくの、でしょうか。

いけだせんせいが、かいいん、ひとりひとりをたいせつにするのは、やくしょくに、かんけいなく、だれもが、「しん、ぎょう、がく」に、てっすれば、 みらいのぶっぽうしどうしゃに、なりえる、そんきなそんざいと、みているからであるし、 かんぶに、きびしいたいどをしめすのは、しどうしゃとして、ぶっぽうをならいきわめようとしない、 あまったれた、しせい、いちねんがあるからだとおもいます。

かこの、ほとけも、いまのほとけも、みらいのほとけも、ぶっぽうをならいきわめて、「しん、ぎょう、がく」に、てっしぬくからこそ、ほとけの、えいえんせいが、りっしょうされるのだと、おもいます。

このせんぶつと、こんぶつを、つなぐのが、もんじゅしりと、みろくなのです。

しかも、どちらかいっぽうだけを、とうじょうさせるのではなく、にぼさつ「もんじゅとみろく」を、ならべ しつもんしゃと、とうべんしゃの、やくわりをさせているところに、つねにきゃっかんせいを、じゅうしする、ほけきょうさくせいしゃの、たいどがうかがえます。

また、めいよや、りえきにしゅうちゃくしていた、「ぐみょう」を、みろくのぜんしんとし、ぐみょうの、しである、「みょうこう」を、もんじゅしりにあてはめ、 みろくをもんじゅしりに、たいする、しつもんしゃに、していることは、 ほけきょうが、みろくしんこうをあえて、おとしめるたちばであることを、ものがたっています。

ぜんかいのろんこう【じゆうのぼさつと、どうしゅうしょうぎ】でも、ふれましたが、 ほけきょうは、とかれるぼうとうから、てっていして、「ししょう、こんぽん、していふに」のきょうてんなのです。

そうか、さんだいのぐうぞうかを、とめるには、でしがもういちど、
しんじんの、きほんである「しん、ぎょう、がく」に、てっしぬくしかありません。

ほんらい、ほけきょうは、にょぜがもんして、だれもがとけるほうもんです。

わたしたちでいえば、かいちょうだけが、じょうい、やくしょくしゃだけが、いけだせんせいの、しどうのしんいを、とくそんざいではないのです。

がっかいいんの、だれもが、「しん、ぎょう、がく」に、てっしぬいていけば、
ししょうのこころを、しどうのしんいを、ばんにんに、といていける、そんきなそんざいなのです。

また、そうなるために、きょうがくという、ぶきがあるのだとおもいます。
わたしたちが、たたかうぶきをもてるのは、きょうがくだけです。

きょうがくをきわめ、まなびぬけば、かならずこたえは、みつかります。

そしきしんこうに、しばられず、かんぶすうはい、しんこうにしばられず、じぶんのちからで、かんがえぬく、しんこうしゃに、なれるのです。

もういちど、わたしたちが、「やまもとしんいち」の、じかくにたって、けんごうのごとき、きょうがくの、がくぎょうをなしおえ、 それぞれの、ちいきで、「よわいものを、まもる、たて」となって、りっぱに、しめいをはたして、いきたいとおもいます。

そして、いかなるけんい、けんりょくにも、そのちえであらがい、みちをきりひらく、そんざいで、ありたいとけついします。

またそれが、いけだせんせいの、のぞまれている、ほんもんのでし、ぐんぞうだとかくしんします。
もはや、これを、でしがじっこうする、いがいに、ほとけのえいえんせいは、そんざいしないとかんがえます。

いけだせんせいは、「たいせつなのは『ちえ』である。ちえをたいとくすることです。
・・・21せいきを、こうふくにするには、『ちえのせいき』とするいがいにない。

そして、ちしきはでんたつできても、ちえは、でんたつできない。じぶんがたいとくするしかないのです。
じつはそこに、ほけきょうが、『してい』という、ぜんじんかくてき、かんけいをきょうちょうする、ひとつの、りゆうもあるのです」
ほけきょうの、ちえ、いちかん、24ぺーじ

と、うったえました。

このししょうの、しどうにたいして、でしが、けついをひょうめいする、ばめんが、「ほけきょうのちえ」に、きさいされています。

それを、さいごにしるして、おわります。

・・・わたしどもも、これをとおして、ほけきょうにかんして、さまざまなかくどから、べんきょうをしていきたい。

また、べんきょうしていかねばならない。これが、21せいきにむかう、わかきしどうしゃたちの、しんずいの、てつがくである、

こう、いえるよう、がんばって、まいります。
ほけきょうの、いちかん、27ぺーじ・・・ おわり――。