投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月13日(火)21時42分56秒  

師敵対の幹部があらわれたら、現実にどうすればいいのか」
このことについて、以下の三つの観点から論じていきたいと思います。

1、 自分が染まらない
2、 容認しない
3、 未来を創る

まず、一番目として、「自分が染まらない」ことについて
自分が師敵対とならないように注意することです。五老僧を例にあげると、日興上人の諌めに、一切耳を傾けず、我見を貫いた。しかし、それは五老僧なりの言い分もあり、それこそが日蓮大聖人の心に適っていると信じていた節もあります。
自分が正しいと信じ込むところに過ちを犯す根本的原因があります。私が常々申していることは、どんな意見であっても、賛成・反対・中立の立場から見ていくこと。もちろん自分の意見も含めてです。そういう思考がないと、自分の考えに固執し、間違っていても改めることもなく、独りよがりとなります。
人は勝手なもので、どこかで「自分だけは大丈夫」と油断しているものです。これは慢心であり、人の話を聴けない人は、相手の意見や思想を受け入れる土壌がなく、我見に陥りやすいのです。ここに魔が入り込んできます。

また、日向に関しては、日興上人よりも年上であり、原殿御返事でも「一字すらも日向に聞いてきた子供であった日興が日向を破折するとは」という内容が記されています。おそらく、日向は日興上人を年下で甘くみていたところもあったことでしょう。腹のどこかで「日興如きが偉そうなことを言うな」という思いもあったのではないかと推察できます。相手よりも自分のほうがよくわかっているという思い上がりが、諌められても聞かず、道を踏み外す要因になり得るということ。経験が慢心を起こし、正しい人の言を蔑ろにする現象は、頻繁に起こるものです。

自分自身が師敵対になっていないかを常に考えていくこと。また、その可能性があることを認識することが大事になります。多くの人は、自分が師敵対になっていることに気づくことはないでしょう。ここが恐ろしいのです。自分が正義だと思っていたら実は師敵対であったという事実は、どんなホラー映画よりも恐ろしい。
54年の時も同じだったと思います。まさか、自分が師敵対に該当するとは思わなかった幹部が大勢いたことでしょう。どんなに悔やんでも悔やみきれないのです。もしも池田先生が自ら戦いを起こすことがなかったら、学会はとっくに宗門の奴隷と化し、日蓮大聖人の魂なき団体となっていたことでしょう。

ちなみに、日蓮大聖人の魂は、日蓮宗→日蓮正宗→創価学会へと引き継がれています。創価学会の次に引き継がれる団体はありません。ここが最終ラインなのです。創価学会が邪教となったとしても、新しい組織をつくったりしたりはしないでしょう。誰にもその資格がないからです。ここが日興上人との違いです。日興上人は日蓮大聖人から別付属(日興上人こそが正統である証)を受けていたので、身延を離れ、新出発を切ることができました。一方我々にはそういったものはないので、新しい組織を作ることは無理でしょう。よって、学会を正常化させることが肝要であり、ある意味、池田門下に逃げ場なしなのです。