投稿者:螺髪 投稿日:2016年 4月11日(月)08時34分56秒   通報
『仏とは生命なり』への一考察⑤

 「喜び」は、「五欲」の充足にともなう喜びもあれば、「意」に沿う喜びも、「思慮」に合う喜びも、はたまた「過去の蓄積」に合う喜びもあります。旧友に合う喜びはこれでしょうか。「久遠の清浄」に合致する喜びがあっても不思議ではありません。心・身で起こる「開」と「合」(この場合は合)に起因すると言ったら言い過ぎでしょうか。
 言うまでもありませんが、「意」とは六識です。「思慮」とは「七識」です。「過去の蓄積」とは、染法を含め蔵識の「八識」、そして「久遠の清浄」とはもちろん「根本浄識」の「九識」です。この「五欲」から六、七、八、九へと登るのを「還滅門(げんめつもん)」の談道と仰せです。
 「五千の上慢は元品の無明なり故に礼仏而退なり此れは九識八識六識と下る分なり流転門の談道なり、仏威徳故去とは還滅門なり然らば威徳とは南無妙法蓮華経なり本迷本悟の全体なり能く能く之を案ず可し云云」(御義口伝P720)。
 「生きる」ことの目的は、「喜び(=歓び)」であることに疑いはありません。

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&二乗は、到達したそういう境涯をも絶対視しない!?
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 さて、何に「喜ぶ」かです。
 池田先生は「法華経の智慧」で語って下さっています。

 名誉会長「喜びにも、いろいろある。『欲界』の欲望を超えて、純粋な知的欲求とか、美への欲求、崇高な境地を目指す精神的欲望もある」
 遠藤「それらの高次元の欲求が満たされていくのが『色界(色天)』『無色界(無色天)』だと思います」
 斉藤「いずれも、真理を求め、その欲求が満たされていく境涯といえるでしょう」
 須田「それは、二乗とは、どう違うのでしょう。とくに『無色界』と『二乗』は、精神的に到達する境涯が似ているように思えるのですが」
 名誉会長「二乗は、到達したそういう境涯をも絶対視しないのです。とらわれない。
 無色界が自分の境地を究極のものと思っているのに対し、二乗は、成仏へと、さらに進むための“途中”ととらえている。とらわれない。縛られない。『空』と見る。すべてを縁起(縁によって起こる)と見る」
 須田「ものごとを縁起的に見るというのは、どんなものでも、ある因とある縁が結び合ってなりたっている、『すべては互いに依り合ってそんざいしている』と見ることですね」
 斉藤「そこにまた新たな因と縁が加われば、すぐに変化してしまう。ですから、どんなものでも、因と縁が仮に和合して成り立っていると見る。いわゆる因縁仮和合です」
 名誉会長「人間もそうです。自分といっても、仮に、こういう姿を取っているに過ぎない。だれも変化を免れない。健康な人でもいつかは病み、死んでいく。うら若き乙女も、あっという間に、孫をあやすようになる(笑い)
 『自分とは何か』――そう考えても、十年前の自分と今の自分は違う。変わらぬ自分というのはないのです。
 ゆえに、自分への執着(我執)を離れよ、と説いたのが仏教です」
 =略=

 名誉会長「=略=この世に無常でないものは何一つないと見て、だからこそ前へ前へ、永遠に前進し、向上していくのが、真の二乗です」
 斉藤「そうしますと、二乗が、自らの到達した境地を絶対化し、安住してしまえば、もはや二乗とはいえないということになりますね」
 名誉会長「そう。六道です。無色界の衆生は、天界の頂上である『有頂天』に立った思ったとたんに、そこから堕ちていく。それと同じです」
 遠藤「やはり人間『有頂天』になってはいけない」(爆笑)
 須田「大聖人は『開目抄』で『上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫(くっぷちゅう)のごとく・せめのぼれども非想天より返って三悪道の堕つ一人として天に留るものなし』(御書187P)と仰せです。
 <(いわゆる善き外道といわれた者は)上は色界・無色界をきわめ、上界を悟りの世界と立てて、尺取虫のごとく、一歩一歩修行してのぼったけれども、非想天(無色界の最高位)から、かえって三悪道に堕ちてしまい、一人として天界に留まるものはなかった>」
 名誉会長「彼らは一生懸命苦行して、一歩ずつ登っていったのに、最後は、まっさかさまに転落してしまう。それはなぜなのか。いろんな観点があるが、やさしく言えば、苦行によって得た境涯には『無理がある』ということでしょう。無理があるゆえに、長くはそこにとどまれない。=略=

 『無色界』も、それなりに自分の境涯を変えようとしたわけだが、そこには正しき『生命の法』への智慧がない。そこで、どうしても無理が出る。背伸びしているだけで、ちゃんとした足場がないから、また、もとの世界に堕ちていく」
 斉藤「自分自身を宮殿のように変えていく『生命の法』が『妙法』ですね」
 名誉会長「結論すればそうです」
 須田「大聖人が、法華経でなければ六道を脱却することはできないととかれている(御書418P、趣意)ことの意味がよくわかりました。二乗も、妙法によって、はじめて六道を超えられるということですね」
 名誉会長「ともあれ、欲望とか、快楽といっても一様ではない。ゆえに、それらが満たされた境涯もまた多様です。こうは言えないだろうか。自分なりの目標をもって生きて、それを達成した喜びの境地が『天界』であると。=略=」(同④P174~180)
さらに、他者貢献の菩薩の喜び、「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御義口伝P788)という仏の喜びがあることは言うまでもありません。

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&三毒・四悪を骨格とした仕組みづくりでは無理が生じる!?
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  先生が仰せの「苦行によって得た境涯には『無理がある』ということでしょう」との一言が、何回読んでも分からないところでした。

 こう理解しました。
 「十界本有」からすれば、畜生も、修羅も、「生命」を維持するには欠かせない働きです。先にも述べました。
 畜生の臆病を煽るやり方も、修羅の優越競う手法も、成果や結果を出すという点においては、ある時、ある時期には効果もあり、有益であったかもしれない。だがそれを、長期に続けていくと、肝心要(かなめ)の人間を窮地に追いやってしまいかねない。貶めることにもなってしまいかねない。いわゆる「家畜」や、「弱肉強食」の世界になってしまいかねない。その究極が、かつての軍隊であり、戦争だともいえます。
 長続きしない。無理があり、病を誘発したり、反発を招いたり、そうでなくても飽きられてしまう。

 現代文明が抱える「行き詰まり」も、そしてあらゆる組織が抱える「闇」の構造も、そこにあるのではないでしょうか。三毒・四悪を骨格とした仕組みづくりでは、やがて無理が生じる。そこから、人界や天界に抜き出た人のみが「喜び」を享受するのでは、やがて行き詰まりがきてしまう。
 天界に至った人も有頂天になって地獄に舞い戻る。これでは、永遠に「楽土」はできないということになってしまいます。

 それは、自身や他者や国土の「境涯」を変えることにほかなりません。
 「境涯」については、同じ「法華経の智慧」こうも論じられています。

 斉藤「その意味で、人界は人界以上の境涯を目指して進んでこそ、人界としての意味があると言えるのではないでしょうか」
 名誉会長「そういえるでしょう。それが『天界』であるし、『二乗界』『菩薩界』『仏界』です。ともあれ『境涯』は不思議です。自分で気がつこうと気がつくまいと、自分の感情はもちろん、振る舞いも、思考も、人間関係も、人生航路も、自分の『境涯』によって大きく決定づけられている。
 個人だけではない。社会にも十界の傾向性がある。私どもの広宣流布は、個人の境涯を変えるのみならず、一国の境涯を変え、人類の境涯を引き上げる運動です。人類史上、いまだかつてない壮大な実験なのです」(文庫本・法華経の智慧④P162~163)=略=

 斉藤「(確かに)御書では、『人界所具の十界』に焦点を当てて論じられておられます。そのうえで、一個の人間が十界互具(百界)の当体であるというのは一体どういう意味になるのか。それとも論じる意味がないのか――という疑問ですね」
 名誉会長「一つのとらえ方として、生命の『基底部』を考えたらどうだろう。『基底部』というのは、同じ人間でも、地獄界を基調に生きている人もいれば、菩薩界を基調に生きている人もいる」
 斉藤「地獄界を基底部にするというのは、ちょっとしたことでもすぐに落ち込んでしまう――などという傾向性もそうですね」
 名誉会長「いわば生命の『くせ』です。これまでの業因によってつくりあげてきた、その人なりの『くせ』がある」
 斉藤「それは、その人の『パーソナリティ(人格)』とかもふくまれますね」
 遠藤「その人がいつも立ち返る『拠点』というか(笑い)、生命の根本軌道でしょうか」

 名誉会長「バネが、伸ばした後もまた戻るように、自分の基底部にもどっていく。地獄界が基底部といっても、四六時中、地獄界のわけではない。人界になったり、修羅界になったりもする。修羅界の『勝他の念』を基底部にする人でも、ときには菩薩界や天界を出すこともあるでしょう」
 須田「それを『修羅界所具の菩薩界』と言っていいわけですね」
 名誉会長「しかし、修羅界を基底部にする人は、一時的に菩薩界を現出しても、また、すぐに修羅に戻ってしまう。この基底部を変えるのが人間革命であり、境涯革命です。その人の『奥底の一念』を変えると言ってもよい。=略=」(同P250~252)。

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&一人の人間革命も一家の和楽も、組織の団結も十界同時の成仏の「姿」!?
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 その意味で、「発迹顕本」は、「十界本有」さらには「十界同時の成仏」を顕す仕組みづくりだともいえます。
 牛、豚、馬の「家畜」扱いの三毒・四悪の体制や、例えそれが人界、天界を含めた六道であっても、もはや成り立たなくなってきているいまの時代だと言えるのではないでしょうか。
 一人の人間革命も、一家の和楽も、組織の団結も、地域や国家の繁栄も、世界の平和も、その生命の階層こそ異なれ、同じ「十界同時の成仏」の「姿」にほかなりません。
                                   (おわり)

(これはあくまでも私論です)