投稿者:生涯広布一筋 投稿日:2016年 4月10日(日)06時31分1秒   通報 編集済
信濃町駅には大勢の男子部・他、学会員の皆さん老若男女が・・と期待して到着した信濃町・・
夕刻、6時頃だったでしょうか?そんなに遅くない時間です。
でも、すでに暗かった・・

到着して、改札を出てみた風景に、誰一人いなかった・・・
暗がりだけが・・通りにも、学会本部前にも、青年会館前にも・・
シーンと静まり返った街並みと通り。
うっそだろう~~~~と私・・
そして、シズ、シズと暗~い通りを通り、聖教新聞社前に到着。
そこにいたのは牙城会の警備一人、二人のみ・・

情けなくなり、そして、先生のご自宅の門前へ・・
なにもできない自分の不甲斐なさ・・
申し訳なさ・・胸の痛み。深々と頭を下げました。申し訳ありませんと(涙・・)
必ず、この仇は広宣流布拡大でと小さな声で・・・

そして、信濃町を去りました・・

その夜の光景は生涯・・・

聖教から消えた先生の記事。
私はどうしても先生にお会いしたくて題目を・・
(当時、先生は神奈川文化会館にいらっしゃったという事は何年もあとに公表された事です)

そうだ、先生は必ず創価大学の公式行事には、お見えになるはず・・
創価大学寮生を中心とした、創価大学家族祭?だったと思います。5月開催・・
間違っていたら、どなたか指摘してください。
その日の午前中、それを知った私は・・
一人の同志と妻と二人の幼い子供を連れて・・創価大へ
ようやく運動場へ到着した時、丁度、先生が退場される時・・間に合った・・
やはり、先生はいらっしゃった・・と皆んなで大喜び、先生の通られる道へさらに駆けつけます。
幾数人かのメンバーも先生を追ってあとを追います。

先生が私たちの前を通られ、私たち見送ります。
通り過ぎられた先生、もう一度、私たちの方を振り返られジッーと見られ・
先生の生命と我が生命とが共鳴しあった、峻厳な瞬間でした。

お祭りの参加人数は例年に比べ非常に少なかった・
追う人も少なかった・・

ミーハーの様だと思われるかもしれませんが、当時、今でもそうですが・・
先生は大事な大事な師匠であり、親です。
昔は先生の亡き後など考えられなかった。言葉にする事さえ恐ろしかった。
先生なき後の私の人生、世界など考えたくなかった。

そう、私の人生は全て先生、先生から全て教えていただいて(直接ではありませんよ・・もちろん)
現在があります。

最近、ようやく、先生亡き後をも考えられる様にはなりましたが・・
これは、先生がこれから私は出ないと・・
我々のショックを少なくされるため、やられている目的の一つでもあると・・
思ってます。昔は、先生没後は世界の終わりとさえ考えていましたからね(笑)

いま、先生を1979年当時と同じく利用する輩がいれば、完全に入ることが露呈してしまったわけですが・・
今度は私たちが我が身を返り見ず戦い、追い出す。
これが、正しい弟子の道だと思いますが、みなさんいかがでしょう?
狂っていますか? 間違っていますか?