投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 4月 3日(日)11時17分21秒   通報
池田大作全集83巻
関東会第十二回研修会 (1993年8月17日)より抜粋③(終わり)

【ガイヤ教授「仏法は人格と人格の触発」】

聖教新聞のアメリカ特派員が、このほどアイダホ大学で哲学・宗教学を教えるニコラス・ガイヤ教授にインタビューし、その内容を伝えてくれた。

私のことも含まれていて恐縮であるが、世界の識者が学会をどう見ているか、その一端として、そのまま紹介させていただきたい。

教授は、仏教を″普遍的なヒューマニズムの教え″としてとらえておられる。

大学の講義でも『私の釈尊観』等を活用し、大きな反響を呼んでいるという。

私が戸田先生に出会ったのは、一九四七年(昭和二十二年)八月十四日。満四十六年になった。特派員はインタビューのさい、その出会いのことをガイヤ教授に語った。

教授は、そのなかからとくに、次の三点に深い関心を寄せられたという。

(1)戸田先生が一青年に対し、平等に接し、対話されたこと。

(2)戸田先生が理論をもてあそぶことなく、飾ることなく、直截で正直に、人生の真実を語られたこと。

(3)そして、戸田先生が軍国主義と戦って牢に入れられた事実に、私が深く共感したこと。

すなわち教授は、私が仏教の教義というより、戸田先生の人格に対してまず心を開き、動かされたことに注目され、こう語られた。

「釈尊は自らを神格化し、その力に絶対従えなどとは言わなかった。死を前にして『私は法を説いた。あとは皆がその法に基づき、自分自身の人格の完成に努力すべきである。あなた方自身が真の人間として輝いていく責任があるのだ』と教えました」

「いいかえれば釈尊の弟子たちは、教条的な教えやルールに盲従したのではなく、釈尊の徳と人格を学びつつ、自身の可能性を開いていったのです。

戸田先生と池田先生の出会いは、まさに『偉大な人格者との触れ合いが、自身の人格を開く』という釈尊と弟子たちの普遍のヒューマニズムの軌跡を現代に映したものといえます」と。

【「権威・形式・閉鎖の宗門は反仏法・反ヒューマニズム」】

また教授は、この釈尊の精神を歪めてしまった″権威の宗教″の矛盾について語っておられる。

「一般に人々は、宗教にすがり、救済を求める傾向がある。それを利用して宗教の権威性が生ずる。しかし釈尊は、真の救済とは、その人が、もともと自身の中に持っている徳性、人格を引き出してあげることにある、と教えたのです」

「その意味で、どこか特別なところへ行かなければ救済が得られない、権威や形式を踏まなければ救済が得られない、という教えは、釈尊の根本精神から外れたものです。

それは、人間の可能性をたたえ、尊重した仏教のヒューマニズムに大きく反するものです」

「特別な世界に救いを求めたり、逃避したりするのではなく、自分自身を変革し、その徳と人格をもって社会を変革し、平和に導くという視点こそ、ヒューマニズムの実践の精髄です」

まったく同感である。
総本山へ行かなければ成仏しないとか、僧侶による儀式がなければ功徳がないとか──それらは仏法の根本精神から、まったく逸脱した邪義である。自分自身の中に仏界はある。その仏界を引き出すのも、自分自身の「信心」なのである。

教授は、こうした考えから、日顕宗を厳しく弾劾しておられる。

「私は宗門問題に深い関心を寄せております。教条的なルールに信徒を従わせようとし、従わなければ破門にする、という日顕宗のあり方は、釈尊の教えに反し、ヒューマニズムに反するものです」

「自身の中に救済のカギがある、という真の仏教の精神に立てば、そのような脅しは、まったく無意味であり、恐れる必要などありません。また切られたとしても、何も失うものはありません。そのような閉鎖社会から自らを切り離し、仏教の原点に戻ろうとされることは、大変喜ばしいことであります」

日顕宗と離れて本当によかったと祝福してくださっている。

さらに教授は、「一人の人間が極端に神格化されると、それに盲目的に従い、自分たちのグループのみが正しく、他は悪である、という傾向が生まれます。その排他性が、対立と戦争の因になります」「しかし釈尊は、法のもとにすべての人が平等であり、尊厳であることを説きました」と。

学会も「平等の世界」である。「一人を大切にする」人間尊厳の世界である。

一方、日顕は自分の内証は大御本尊と一体不二だなどと言わせている。そして民衆の中には決して入ることなく、自分を神格化し、権威づけようとしているのである。