投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月 2日(金)10時59分51秒  

アルベア様、有意義な投稿ありがとうございます。
俯瞰的視座に対して、私の「気づき」や、考えたことについて述べさせていただきます。

俯瞰(ふかん):高い所から見下ろすこと。全体を上から見ること。

「なぜ山に登るのか、そこに山があるからだ」
正しくは「なぜ山に登るのか、俯瞰的視座に立つためだ」が正解なのかもしれません。
日本人の多くは富士山が好きだと思いますが、私ももれなく富士山好きです。

俯瞰的視座を別の言い方で表現すると「宇宙的視座」や「全体観」等に訳せると思います。

御本尊に関しても、法華経の虚空会の儀式を文字に顕したものであり、
霊鷲山から虚空会という高みに到達し、また霊鷲山へ戻る。
虚空会とはまさに俯瞰的視座を表しているものであると推察します。

日蓮仏法はいつか仏に成るという思想ではなく、
仏という最高の高みからスタートしていく思想です。
勤行唱題によって仏界を顕し、そして現実の九界の世界で行動していく。
仏の境地(俯瞰的視座)から九界を観ていくこと、
そこにこそ正しい確かなる軌道の人生があります。

池田先生の指導(広布と人生を語る2巻より)
「全体観に立ち、すべてを把握しながらの運営であり、運動でなくてはならない」

広宣流布という全体観に立ち、すべての戦いを進めていくこと。これがおかしな方向に行くと、官僚主義や組織主義、成果主義へと陥っていく。自浄作用のための悪しき幹部の糾弾も、行き過ぎると批判のための批判に堕していく。善悪不二であるが故に、善知識にもなれば悪知識にもなり得るのが、末法の衆生であり、私ももれなくそこに含まれる。

人生も信心も「愚考」に陥ることへの戦いなのだと感じます。信心を根本とし、
日々の勤行唱題の中で愚考を退けていくこと。その精進行があってこそ、
悪との闘争においても、力を発揮することができるのではないか。
逆にそれがなくなると、いつしかミイラ取りがミイラとなり、
自分自身が悪側に加担する存在となる。

今年は人生初の初日の出を見に行きました。初初日の出です。
太陽は宇宙的視座の象徴であり、万人を普く照らす。日蓮の「日」も太陽をあらわしている。
凡夫というのは浅はかであり、愚考や愚行を繰り返す存在です。しかし、それと同時に、崇高なものを求める存在でもあります。

十字(むしもち)御書(P1492)の中に「さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ」とあります。ゴツゴツした見栄えの悪い木の中から、綺麗な桜が咲き出づる。同じように、汚い凡夫の生命の中に仏の生命が厳然と輝いている。
自分の心(凡夫)ではなく、御本尊(仏)に合わせた人生を歩んでいきたいものです。