投稿者:陽光メール 投稿日:2016年 6月26日(日)01時25分38秒   通報
これから私の信心の本当の修業が始まる。先生の「深く大きく境涯を開いて自分自身と創価学会の目の覚めるような発迹顕本を頼む」と言われたことを帰宅する車の中で考えた。このことについては長い間熟考していたことである。先生はこのメッセージで何を意味されているのであろうか。考えに考えた。その時、突如として脳裏にパッと閃いたものがあった。それはアルベア論にあることであるが、「深く大きく境涯を開いて」という意味は、「自己機能を体感し救済者となること」なのだ。救済者になって初めて自分自身の発迹顕本が可能となる。いや、救済者にならなければ発迹顕本は不可能なのだ。そして、多くの救済者が集まる事によって創価学会の発迹顕本が自然に可能になるんだ。そのためには自分が一人立つ以外にないんだ。自分が山本伸一になる他ないんだ。先生はこの事を私たち弟子にメッセージを送られ、伝えようとされているんだ。目から鱗であった。今のところ「理」ではあるが先生のメッセージが心から分かった気がした。

この「問答無用対話なき処分」のお陰で私の真の使命に気づかせてもらったのだ。末法万年尽未来際のために極悪とは徹底的に戦わなければならない。「悪を滅して善を生ずる」「破邪顕正」とは、悪と闘う事が第一義なのだ。日蓮大聖人の精神に背くもの、創価三代、なかんずく、池田先生の指導に背くものはすべて「悪」と断じる。その悪と闘う事こそが私の今世の使命だったんだ。なるほど、今回の一連の出来事は先生のメッセージの真意を気付かせてくれるためにあったのだ。ぬるま湯に浸かった信心では発迹顕本は到底できない。できる筈もない。そうなんだ。これからいよいよ自分自身の本物の信心が始まるのだ。そのように感じた。不思議な感じだが、除名処分を受けてもまるで悲壮感がない。むしろ心は晴れ晴れとワクワクしているのだ。これほどすっきりした気分になったのも珍しい。

法華経の智慧 「提婆達多品」より (少し長いですが引用します)
名誉会長: それが仏の心である。ゆえに仏は極善です。しかし、それは仏の生命に悪がないということではない。悪は、可能性として仏の生命にも具わっている。しかし、最高の善を目指し、悪と戦い抜いているがゆえに、仏は善なのです。大聖人は「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し」(御書 p563)と仰せです。善も悪も実体ではない。空であり、関係性によって生ずる。だからこそ、たえず善に向かう心が大事であり、行動が大事なのです。

名誉会長: そう。仏法は勝負です。限りなき闘争です。釈尊が提婆達多に勝ったからこそ提婆の「悪」が釈尊の「善」を証明することになった。悪に負けてしまえば、善知識であったとは、とても言えない。戸田先生は明快に言われています。「提婆達多は釈迦一代にわたる謗法の人で、一切世間の諸善を断じた。ゆえに爾前経では『悪がなければもって賢善を顕すことができない。このゆえに提婆達多は無数劫以来、常に釈迦とともにあって、釈迦は仏道を行じ提婆は非道を行じてきた。しこうして互いに相啓発してきたものである』と。しかるに対悪顕善(悪に対して善を顕す)が終われば悪の全体はすなわちこれ善である。ゆえに法華経では善悪不二、邪正一如、逆即是順(逆縁も即ちこれ順縁)となるのである。このことは爾前経ではいまだ説かれなかった奥底の義である」。

悪もまた善を顕す働きをするのであれば、悪の全体がそのまま善になります。まさに善悪不二です。しかし、自然のままに放置していて、悪が善になるのではない。悪と戦い、完膚なきまで打ち勝って、はじめて善悪不二となるのです。その意味で、提婆品の「悪人成仏」とは、釈尊による「善の勝利」の偉大な証明です。勝利宣言です。その「勝者」の境涯が高みに立ってはじめて、提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれたのだと言えるのです。

名誉会長: 「生命の真実」であると言えるでしょう。提婆達多も、生命の真実の姿においては、善悪不二です。無明と法性が一体の妙法の当体です。釈尊が師とした過去世の提婆達多とは、じつは、この妙法そのものだったと言えるのです。ゆえに大聖人は「提婆は妙法蓮華経の別名なり過去の時に阿私仙人なり阿私仙人とは妙法の異名なり」(御書 p744)と仰せです。釈尊も根源の妙法を師として成仏しました。そのことを提婆品では、釈尊が過去世に阿私仙人を師匠として修行し、成仏したという表現で示したと考えられます。