投稿者:陽光メール 投稿日:2016年 3月29日(火)01時50分49秒   通報
草創期のメンバーの活動には何よりも歓喜・感動があった。確信があった。楽しかった。草創期の人達は、ブロークン・イングリッシュではあるが仏法を語る時は、大確信をもって折伏に励んだものである。アメリカの広布の歴史と言っても最初はアメリカ人の兵隊さんと結婚して異国の地に来た婦人達が、池田先生の激励によって折伏をし始め、仏法を広めることから始まったのです。

大聖人の御書を勉強し、先生の指導を素直に身に受け、日常生活に辛い事、苦しい事があっても嬉々として学会活動した。当時は、「自分達が世界平和を作っていくんだ」という自負と誇りと夢があり、本当に楽しい充実した毎日だった。しかし、組織が出来上がってくると、高学歴・高収入の人達がリーダーシップをとりはじめ、組織は徐々に感動も薄れ、権威主義の上意下達の命令形式に陥り、昔の歓喜ある学会からだんだんと遠のいていく感じに変化してしまった。

それが、この10数年前、それよりもっと前から「変な学会」になった、と感じるようになったものと思う。昔、歓喜の学会活動を経験した人達も、組織には残っているけど、組織にモノ言えば上から睨まれるので臆病になり、惰性の信心で何とか生き残っている多宝会の人達が多く見受けられる。

若い人達は、入信しても長続きしない。入信の最初の頃は、何か功徳を感じる時は嬉々として活動はするが、難や三障四魔に出会うと活動から遠のいてしまう傾向がある。新しいメンバーは入信をしたものの、彼らを激励して心を動かすことのできる、また、納得いく説明ができる幹部がいない。訓練を受けた幹部が殆どいないのだ。縁あって日蓮仏法に巡り合っても、この信心を一生続けることが如何に難しいかということの証左でもある。