池田先生の指導③1-1
投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 8日(月)13時27分23秒 返信・引用

ドイツのある学者のエピソードである。こう、パッと話のチャンネルを変えると、興味もわく。頭にも入りやすい。

彼は昼間は生活のために会社に勤め、事務員として朝から夕までコツコツと計算ばかりしている――それが日常だった。
夜の時間だけを研究に使っていたのである。
ある日、見かねた友人が忠告した。
「君ほどの人物が、会社の事務員をしているなんて、もったいない。君の主人は、いつもいばっているばかりいるが、学問を比べたら、君の小指ぼどもないだろう。そんな男のもとで、使われているなんて、くだらないよ」

しかし、大学者は少しも悪びれず、こう答えた。
「いや、これでいいんだ。僕を使えばこそ、会社も利益を得られるし、僕も食べていけるのだ。反対に、僕が会社の主人で、あの主人が僕の立場だったら、どうなる? 僕はあの人を使いきれないよ」と。

組織上の役職、社会などの機構は、必ずしも実力のとおりとはいえない。
生身の「人間」の世界であり、人事配置にしても、適材適所でない場合もある。
また、貴族制、世襲制などは、実力より身分、家柄、地位等を優先した典型であろう。

それはそれとして、実体なき地位や身分が《上の人》よりも、実際に《働く人》のほうが、結局は幸福だし、満足がある。
広宣流布をめざしての活動においてもまた同じである。
立場でもない。
役職でもない。
実際に悩める人々の中に飛び込み、語り、苦労して、仏法を弘めた人が偉いのである。

立場や権威の上にあぐらをかき、いばり、命令し、皆を困らせるような人間は、仏法の目から見れば最低の存在である。
そうした悪を許してはならない。

そのうえで、一つの「発想の転換」「心の切り替え」の例として、時には、この大学者の考え方を見習ってみるのも、よいのではないだろうか。

「俺たちが働いているから、もっているのだ。立場が反対なら、なにもかもめちゃくちゃになるさ」と――。
要は、聡明に知恵を使い、境涯を広げ、つねに一切の矛盾をも悠々と見おろしていける人が賢者であり、幸福なのである。

「失意泰然、得意淡然」(失意の時も悠々と動ぜず、得意の時も淡々としてふだんと変わらない)という言葉があるが、何ものにも動ぜぬ「心の世界」を確立している人は強い。

着実に向上していく。そこに自立した「人格」の力がある。
人生の目的は幸福である。その幸福を決めるのは自身の境涯である。
《境涯を開く》人が《幸福を開く》人なのである。
その境涯を無限に開きゆく原動力が「信心」である。