投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月25日(月)09時42分13秒   通報
さらにその二年後の明治九年二月、

「大石寺・北山本門寺・京都要法寺・富士妙蓮寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺」の八山が
「勝劣派」より分離して「日蓮宗興門派」と名乗り、八山の代表が一年交代で管長を務めることになりました。

つまり、大石寺は要法寺や北山の代表などの「謗法の管長」の支配下にあったのです。

大石寺の第五十五世日布・第五十六世日応が管長になった期間もありましたが、他山の誤りを破折したことはありません。
その後、興門派は「本門宗」と改宗しています。

しかし同じ日興門流といっても、八山はそれぞれ歴史や教義が異なるために紛争が絶えませんでした。

そのため大石寺は、独立することを主張して、一九〇〇(明治三十三)年九月に分離独立が認可され、「日蓮宗富士派」と名乗ります。

さらにその後、日蓮の正統が派号を名乗るのはおかしいと、
一九一二(明治四十五・大正元)年六月より、「日蓮正宗」と公称するようになるのです。

大石寺は明治以降、大聖人の正統の教団としての誇りも正義も忘れて、長い間、
他の日蓮宗各派と合同し謗法の宗派の一員として、かろうじて生き延びてきたのにすぎないのです。

明治三十七年の調査によれば、当時の「富士派」の実勢は、
寺院が八十七、住職が四十七人、檀信徒が約五万八千人という「弱小教団」にすぎませんでした。

昭和に入り、世の中が戦争に向かっていく時流のなかで、日本は軍国主義に傾倒していきます。

この時に登場したのが、創価教育学会初代会長「牧口先生」と、第二代会長「戸田先生」です。