投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月11日(月)14時24分1秒   通報
唱法華題目抄には「法門をもて邪正をただすべし」(一六頁)との記述がありますが、
これは仏法の正邪の裁定には、法門上の根拠が必要不可欠なのだという意味です。

戸田先生は宗教批判の基準について

「日本の現在は種々の宗教があるが、これを批判する基準を知らない。
ことに知識階級ぐらいは、これを知っておってよいはずだが、宗教教育のないために、
啞法の尊者のようであるのは遺憾というよりほかない。

しからば、宗教批判の原理はなにか。
五重の相対と、文証・理証・現証の三証と、教・機・時・国・教法流布の先後(五義)とについて考察しなくてはならない」
(戸田城聖全集三巻一三〇頁)と述べています。

そして池田先生は小説「新・人間革命(厳護)二十四巻」で、教学の重要性についてこう述べています。

「仏法を学び、教学の研鑽を重ねることは、人生の意味を掘り下げ、豊饒(ほうじょう)なる精神の宝庫の扉を開く作業といってよい。
・・・第二代会長・戸田城聖も、こう訴えている。
『信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ』『教学により信心が強くなり、高まるから功徳がでる』と。

大聖人は『心の師とはなるとも心を師とせざれ』との経文を引かれて、仏法者の在り方を指導されている。
その『心の師』となるべき、仏法の法理を学ぶのが教学である。

・・・創価学会の人間革命運動を推進していくには、教学が不可欠であるというのが、伸一の思索に思索を重ねた結論であったのである。
戦後の創価学会再建にあたって、戸田城聖が全精魂を注いできたのは、教学を一人ひとりの生命に打ち込むことであった」と。