2016年1月10日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 1月10日(日)16時41分31秒 通報 ・永遠の希望様 広宣流布とは、仏(御本尊)の力で推進するものであり、仏力・法力が顕現されてはじめて、進むものです。それを自分たちの力でやっていると勘違いするところから狂いが生じる。我々サイドで出来ることは、いかに信力・行力を奮い起こすかです。即ち、御本尊を信じ抜き、御書や三代会長の指導通りに行動していく中に、仏力・法力が顕れるのです。 どんな世界にもコツは存在し、仏力・法力を顕現させることにもコツがあります。私の体感から言うのであれば、「祈りが確信に変わるまで祈る」ことが、コツであるように思います。仏力・法力が顕現されていない証拠としては、「歓喜がない」という状況が挙げられます。義務感や惰性の信心では歓喜が生じないのは、御本尊に感応せず、仏力・法力が顕現していないからでしょう。 御本尊は功徳聚(功徳の集まり)ですので、仏力・法力を顕現させるコツをつかめば、いくらでも功徳が溢れてきます。要は、すべて自身の信心にかかっているということです。 ・虹と創価家族様 勇気とは、いきなり出せるものではないようです。日頃から、勇気を出す訓練をしておくことが重要です。人生とは、小さな勇気を出すか出さないかの連続闘争です。向上心もなく、惰性に流されていると、勇気を出す癖もなくなる。常に張り詰めた信心で、勇気を出すか出さないかの決断を迫られる、そういった戦いなくして、いきなり大きな勇気を出すことはできない。何事も訓練が大事であり、勇気においても例外ではない。 御書にも「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」(P912)とありますように、勇気も日頃から使っていかないとレベルアップを遂げることはできない。勇気の源泉は覚悟であり、生命力です。人は勇気を使った分だけ成長し、前に進めるのではないでしょうか。勇気を出すときの独特の緊張感、どうなるかわからない不安、そういったものを乗り越えて行動した時の達成感は、何ものにも代え難いものです。 ・ひかり様 心に釈然としないものを感じる時は、大抵は「何か」あるものです。人間の第六感というものは、中々馬鹿にできるものではありません。「ちょっとおかしいな」「違和感を感じるな」という、自身の感覚というものを大事にし、間違っても、無理に納得しようとする必要はありません。整合性がないということは、そこには道理は存在しないので、疑心暗鬼となります。 自分の感覚を無視し、組織や回りの空気に合わせていると、いつしか自身の感覚は麻痺し、おかしいものをおかしいと感じなくなります、これ恐ろしいことです。白黒の話も、当の発言した幹部の人は、自身の発言のおかしさに気づいておらず、末期状態と言えましょう。感覚が麻痺すると、人の心もわからなくなります。これは誰もが陥る可能性のあるもので、組織に生きる人間の宿命とも言えましょう。 これからも、ひかり様自身の感覚を大事にされ、おかしいものはおかしいと叫び続けてください。勇気は伝染し、道理があるところに、納得も歓喜もあります。内心言いたくても言えない人が沢山いるなかで、現実に声をあげる人は貴重です。そういう所謂、「ヒーロー」を民衆は待望しているものなのです。 Tweet