2015年11月28日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年11月28日(土)07時45分9秒 通報 幸福という言葉の中には、現世利益的な側面が多く含まれると思います。日蓮仏法は、所謂、「普通の幸福」を追い求める宗教ではなく、人生の四苦八苦という厳しい現実と戦うというのが根幹となります。また、三障四魔や三類の強敵と対峙し、打ち破っていくという、登竜門の滝を登るが如しの戦いです。題目を唱え、自身のすべての力を湧現させ、乗り越えていく。そこに人間革命、宿命転換があり、真の幸福もあります。 抽象的な幸福という言葉は、時に底の浅い功徳論へとつながり、それはかえって日蓮仏法を矮小化してしまう恐れがあります。法華経の行者は冬のごとしであり、春のごとしではありません。普通の幸福という次元を遥かに超えた、絶対的な幸福境涯の確立が要であり、それ以外は枝葉です。だからといって、いつまでも病気や貧困等で苦しむのも違います。広宣流布を目指す、人間革命、宿命転換の信心に立脚した時に、現世利益の功徳も活きてきます。信心が深まってくると、必ず、転換点を迎えます。即ち、現世利益を中心とした信心から、広宣流布の信心への転換です。 信心していても、「なんでこんなことが起きるのか」という現象はいくらでもあります。それは一見不幸であり、嘆き悲しむ現実です。現世利益中心の信心だと、「信心しているのに何で?」と、御本尊を疑い始めます。しかしこの壁こそが、乗り越えるべきものであり、信心が試されているのです。どんな体験談も、この壁にぶつかり、一念の転換がなされ、絶大な功徳を頂戴する。まさに仏法は勝負であり、ピンチはチャンスです。追い込まれれば追い込まれるほど、信心を奮起し、ひたぶるに唱題をあげていくこと、これ真の信心であります。 何も起きなければ何も変われない。恵まれすぎていると、信心の厳しさもわからなくなる。四苦八苦と向き合い、挑戦していく中に、人としての成長もあります。それが創価の信心であり、三代会長が教えてきた生き方なのではないでしょうか。今月の本幹では、牧口先生が獄死、戸田先生がその中でひたぶるに唱題をあげていく映像作品が観れます。人生の辛酸をなめ尽くした戸田先生の肉声も聴けます。その声を聴いただけで、本物であることがわかります。魂からの声は、人の心を打ちます。逆に冷徹で官僚的な声は、何も響いてこない。その対比がわかるような本部幹部会でした。 Tweet