投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月15日(日)17時22分3秒   通報
■ 「増上慢」との戦いか法華経

須田: 勧持品(第十三章)の「三類の強敵」には、すべて「増上慢」と付いています。 〈俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢〉
「増上慢」こそ「法華経の敵」ということだと思います。
特に僣聖増上慢は、人々から聖人のように尊敬されながら、内面は悪心に満ち、「人間を軽賎する者」と呼ばれています。

遠藤: 宗門ですね。経文通りです。
法華経は「人間を尊敬する」仏の心と、「人間を軽視する」魔の心との戦いです。「第六天の魔王」との戦いが、法華経であると思います。

名誉会長: その通りだ。その戦いを「師弟一体」で断行していくとき、はじめて、わが身の上に「仏界」が涌現する。「妙法蓮華」の花が咲いていくのです。
「妙」は師匠、「法」は弟子。一体です。「蓮華」は因果倶時を表す。因は九界で弟子、果は仏界で師。師弟不二です。妙法も蓮華も「師弟不二」を表しているのです。それが妙法蓮華経(法華経)です。この妙法を広宣流布していく「信心」を指して「仏界」という。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(中略)此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書 p1244)の仰せを、かみしめなければならない。
〈この御本尊は、まったくよそに求めてはなりません。ただ、私たち衆生が、法華経を信受し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのです。(中略)この御本尊も、ただ『信心』の二字に収まっているのです〉
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無量義経 十功徳品第三から
善男子、第一に、是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、慈仁なき者には慈心を起さしめ、殺戮を好む者には大悲の心を起さしめ、嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ、愛著ある者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、僑慢多き者には持戒の心を起さしめ、瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、愚癡多き者には智慧の心を起さしめ、未だ彼を度すること能わざる者には、彼を度する心を起さしめ、十悪を行ずる者には、十善の心を起さしめ、有為を楽う者には無為の心を志ざしめ、退心ある者には不退の心を作さしめ、有漏を為す者には無漏の心を起さしめ、煩悩多き者には除滅の心を起さしむ。善男子、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名づく。(法華経)

善男子よ、第一にこの経(法華経の開経である無量義経)は、菩薩でまだ発心していない者に菩提心を起こさせ、慈しむ心のない者に慈しみの心を起こさせ、殺戮を好む者に慈悲の心を起こさせ、嫉妬する者には随喜する心を起こさせ、ものごとに執着する者に喜んで捨てる心を起こさせ、いろいろなものを惜しみ貪る者には布施の心を起こさせ、驕慢の多い者には戒律を持つ心を起こさせ、瞋恚が盛んな者には堪え忍ぶ心を起こさせ、怠る者には努力する心を起こさせ、種々に心散って乱れる者には心を一つに定める禅定の心を起こさせ、愚癡の多い者には智慧の心を起こさせ、人を救うことができないという者には人を救う心を起こさせ、十悪を行う者には十善の心を起こさせ、生滅変化するものを願う者には永遠常住の真実を求める心を起こさせ、退く心を持つ者には不退の心を起こさせ、汚れたことをなす者には汚れのない心を起こさせ、煩悩の多い者には煩悩を除き滅す心を起こさせる。善男子よ、これをこの経の第一の功徳不思議の力と名づけるのである。

「無量義経」について
法華経と無量義経、仏説観普賢菩薩行法経(普賢経)とを合わせて「法華三部経」という。これは天台が無量義経を法華経の開経、普賢経を結経と定めたことに基づく。
無量義経(一巻)は三品から成る。序分に当たる「徳行品第一」では、多くの菩薩、大比丘が王舎城耆闍崛山(霊鷲山)に集まり、釈尊を讃嘆する。代表して大荘厳菩薩が讃嘆の偈を謳うが、そのなかに、「 其の身は有に非ず亦無に非ず  因に非ず縁に非ず自他に非ず —- 」と、仏の身を形容する三十四の「非ず」を連ねている。戸田第二代会長は獄中でこの経文を思索し、「仏とは生命なり」と悟ったのである。
正宗分に当たる「説法品第二」では、菩薩が速やかに無上の悟りを得るための「法」が説かれる。その法の名は「無量義」で、衆生の機根が無量なので説かれる義も無量であるが、すべて実相である無相の一法から生ずるという。このことを「無量義とは一法より生ず」と述べている。その「一法」を示したのが、法華経である。
また、「四十余年には未だ真実を顕さず」と述べて、二乗の法も菩薩の歴劫修行を説く諸大乗経も、すべて真実ではないと説かれる。
流通分に当たる「十功徳品第三」では、無量義経の不可思議な十種の功徳が説かれている。(1)機根に応じて種々の善心を起こさせる(2)一偈一句でも聞けば無数の義に通達できる(3)自らも生死を恐れず、衆生が生死を超えるのを助ける(4)一句でも説く人は、他の人を救う真実の菩薩となる(5)受持・読誦・書写する人は大菩薩となる(6)自分は煩悩を具していても、衆生の一切の苦を断ずることができる(7)六波羅蜜を修行していなくても六波羅蜜が自然に具わる(8)無生法忍を得て無上菩提を成就する(9)宿業を一時に滅尽し、三昧を得て十方国土に分身散体し、極苦の衆生を救う(10)大願を起こし大悲を成就し、すべての衆生を利益し救う。言うまでもないが、これらはすべて、この経の後に説かれる法華経の功徳である。(漢訳は曇摩間伽陀耶舎による)
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名誉会長: 「信心」とは「実行」です。「戦い」です。戸田先生も、最後の最後まで、「広宣流布」へ、命を燃やされた。牧口先生も、そうであった。世界的大学者で、大人格者の牧口先生が「獄死」ですよ。日本の権力に殺されたのです。
牧口先生は入獄される年(昭和18年=1943年)、「今こそ国難を救うべき時だ」と叫ばれ、春ごろから学生に「立正安国論」の講義を始められた。その年の7月6日に投獄です。 それまで「牧口先生」「牧口先生」と言っていた弟子たちが、手のひらを返したように「牧口の野郎」とか「牧口のせいで」とか罵倒した。人の心は、恐ろしい。
その反対に、戸田先生だけは「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と感謝しておられた。天地雲泥です。
牧口先生は、投獄の翌年11月に逝去された。「安国論」を身で読まれての獄死です。
■ 獄中で「思い出した」

名誉会長: そして不二の弟子・戸田先生は、同じ獄中で「法華経」を読まれ、その真髄を覚知されたのです。それは「仏」とは、宇宙に遍満する「大生命」のことであり、久遠の昔から常に、この世界に「永遠の命」として働き続けている —- 自分もその「永遠の大生命」の子どもであり、仏子であるという自覚です。
「生命」についての、この悟達は、今後、人類の探究が進めば進むほど、正しさと偉大さが証明されていくに違いない。もう、すでに、そういう時代に入りつつある。
戸田先生はよく、「勉強したんじゃない、思い出したんだ」と言われていた。獄中でのご苦労のため、先生の目は極度の近眼になっていた。御書を読まれるときなど、眼鏡をはずして、目を細め、鼻をすりつけるようにして読んでおられた。
「私は目がこんなだし、みんなのように御書を読んではいないよ。大聖人様の仏法は、思い出すのだ」と言っておられた。
仏法の質問を受けられて、先生は「私は、こう思う」と言われ、「大聖人様も、きっと、そう教えておられるはずだ。どこかにあるはずだ」と言われる。調べてみると「御義口伝」などに、ちゃんと出ている。「わからないところを思索していると、ふうっとわかることが、たびたびあった」とも言われていた。
戸田先生の悟りも「師弟不二」の悟りです。久遠以来、日蓮大聖人の弟子として、一体で活躍してきた、その事実を「思い出した」のです。これがわかれば、何で命が惜しかろうか。
ただただ感謝して、広宣流布へ向かうはずです。永遠に広宣流布へ「向かっていく」 —- その「信心」以外に、末法の悟りもなければ、仏界もない。
これが戸田先生の教えです。